現場に落ちていた血痕を拭《ぬぐ》って一つの証拠を湮滅《いんめつ》し、それからまた毛布についていた血痕の部分を鋏《はさみ》で切り取ってマッチ函のなかに収め、同じく証拠湮滅を図ったことである。その血痕が直接に犯人を指しているというのではないが、啻《ただ》そのような証拠を隠滅した行動それ自体が杜には後悔され、そして予審が終結したのにも拘らず、その結末が彼だけには信じられないのであった。それはたしかにこの世ながらの地獄の一つだと、杜は感じたことである。
あの血痕を、それから自身持参して検事局を訪ねようかと思わぬでもなかったけれど、一日経ち二日経ち、彼は遂にそれを決行しなかった。
11[#「11」は縦中横]
それは事件があってから、もう一ヶ月に垂《なんな》んとする頃の出来ごとだった。
杜はバラックの中で、明るい電灯のもとに震災慰問袋の中に入っていた古雑誌を展《ひろ》げて読み耽《ふけ》っていた。そのとき表の方にあたって、
「今晩は――」
という若い女の声を耳にして、ハッと愕《おどろ》いた。事件以来、それは最初に彼に呼びかけた女の声であるかもしれない。
「だ、誰です。――」
彼は恐《おそ》る恐《おそ》る席を立って、表の戸を開いてみた。
「ああよかった。いらっしったのネ」
「ど、誰方?――」
杜にはそれが何人であるかは大凡《おおよそ》気がつかぬでもなかったが、ついそう聞きかえさずにはいられなかった。激しい興奮が、いまや彼の全身を駆けめぐり始めたからだ。
「あたしよォ。――ミチミ」
ああミチミだ。やっぱりミチミだった。ミチミが来た、ミチミが帰って来たのだ。震災の日に生き別れ、それから一度焼け落ちた吾妻橋の上で睨《にら》み合って別れ、それからずっとこの方《かた》彼女を見なかった。とうとうミチミは彼の前に現れた。昔に変らぬ純な、そして朗かなミチミであるように見えた。
「おおミチミ。――さあお上り」
その年はいつまでも真夏がつづいているように暑かった。ミチミは何処で求めたものか彼女らしい気品の高い単衣《ひとえ》を着、そしてその上に青い帯を締めていた。
「よく分ったネ。こんな所にいるということが――」
「ええ。――でも、新聞に貴郎《あなた》のことが出ていたわ。ほんとに今度は、お気の毒な目にお遭いになったのネ」
「いや、やっぱり僕の行いがよくなかったんだ。魔が
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