気がつくなどという有様だった。高島町の露地へ迷いこんだのも、こうした事情に基くものだった。
その露地には、まるで人けがなかった。倒れた家だけあって、全く無人境《むじんきょう》にひとしかった。杜はまるで夢のなかの町へ迷いこんだような気がした。
なぜこの露地が無人境になっているかが、やがて彼にも嚥《の》みこめるときがきた。向いの廂《ひさし》の間から黄竜《こうりゅう》が吐きだすような厭《いや》な煙がスーッと出てきた。オヤと思う間もなく、うしろにあって、パリパリという物を裂くような音が聞えたかと思う途端、火床《ひどこ》を開いたようにドッと猛烈な火の手があがり、彼は俄《にわか》に高熱と呼吸《いき》ぐるしさとに締つけられるように感じた。彼はゴホンゴホンと立てつづけに咳《せき》をした。眼瞼《まぶた》をしばたたいて涙を払ったとき、彼は赤い焔が家々の軒先をつたって、まるで軽業のようにツツーと走ってゆくのを見た。とうとうこの露地にも火がついたのだ。
彼は拡大してゆく事態に、底知れぬ恐怖を感じた。猛火に身体を包まれてはたまらないと思った。急速にその露地を通り抜けないともう危い。彼は足早にそこを駈けだした。そして同じ露地の倒壊した提灯屋の屋根瓦の上を渡ろうとしたときに、突然足の下からヒイヒイと泣き叫ぶ女の声を耳にしたのであった。
「た、助けてェ……。女が居ますよォ……。焼け死にますよォ……。た助けてェ」
人間の声に、生れつきのリズムがあるということを、彼ははじめて知った。それはともかく、彼はあまりにその悲惨な声に、思わず足を停めた。
女は何処にいるのかと、声をたよりに探してみると、彼女は屋根が地上を舐《な》めているその切れ目のところに、うつぶせになって喚《わめ》いていた。丸髷《まるまげ》の根がくずれて、見るもあさましい形になってはいたが、真新しい明石縮《あかしちぢみ》の粋な単衣《ひとえ》を着た下町風の女房だった。しかし見たところ、別に身体の異状はないらしく、ただうつぶせになって騒いでいるところをみるとこれは気が違ったかも知れないと思ったことだった。
「どうしたの、お内儀《かみ》さん……」と、彼はその背後によって仮りに声をかけた。
「ああッ――」と、女は丸い肩をグッと曲げて、顔をあげた。女は彼よりも五つ六つ、年上に見えた。乱れ髪が額から頬に掛っていた。彼女は邪魔になる髪を強くふり払
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