ない。この十五坪住宅の主人が夜|厠《かわや》の窓から何気《なにげ》なく外を見たところ、トランクが月の光に照らされて、ひとりで道を歩いていたという東都怪異譚《とうとかいいたん》の始まり――あの頃|更《さら》に以前の関係者に相違ない。
 一体、誰と誰であろう。
 一人は、田鍋課長の指摘《してき》したとおり、多分お化け鞄を博士から奪った兇賊であろうと思われる。しかしこのことも、博士が意識を恢復《かいふく》して、遭難談を詳《くわ》しく述べてくれる日までお預けとしなければなるまい。今一人の人物については、全く五里霧中《ごりむちゅう》である。
 が、この二人の正体を突き留《と》めさえすれば、この事件の解決は一層早くなるものと、帆村は確信し、いま推理を懸命に働かせている最中なのであった。
 なにさま、帆村探偵の考え方は、田鍋課長のそれとは大分違っている。


   深夜の研究室


 闇《やみ》に紛《まぎ》れて、四名は赤見沢研究所の建物の壁際《かべぎわ》にぴったり取付いた。
 時刻は午後十一時であった。
 研究所のすべての窓は真暗《まっくら》であった。みんな寝てしまったであろうかと始めは思ったけれど、窓の一つからすこし灯《ひ》が洩《も》れているので、一同はそれを目当《めあ》てにしてその窓下へ身をひそめたわけである。
 ジイイイ……と、妙な音が、室内にしている。
 中を覗《のぞ》こうとしたが、窓が高い。
 そこで田鍋の部下二名が台の代りになり、帆村と課長を肩車に乗せた。この珍妙《ちんみょう》な形でもって、透間《すきま》を通して窓の中を覗いた。
 カーテンの隙間から、室内の模様をうかがうことが出来た。
「おやア……」
「あッ」
 帆村も田鍋課長も、思わず愕《おどろ》きの声を発して、あわててあとの声をのみこんだ。
 室内には、まことにふしぎな光景が展開していた。
 その部屋は、赤見沢博士の研究室の一つで、多数の器具機械がごたごたと並んでいた。そしてそこに三人の人物が居た。
 そのうちの一人は、助手の小山すみれ女史であって、彼女がそこに居ることには格別《かくべつ》愕きはしない。
 もう一人は、若い男であった。かなり背の高い、立派な顔立の青年であって、にこやかな笑いをたたえて、小山すみれの方を見つめている。
 この男の顔を見て愕いたのは帆村荘六ではなく、田鍋課長であった。
(はてな。この女たらしの男は、どこかで見たことがあるぞ)
 たしかに課長の記憶の中にある男であった。しかしどこで見た男だったか、すぐにはそれを思出すことが出来なくて、課長はいらいらして来た。帆村はこの青年の顔に、何の記憶も持っていなかった。ただ、小山すみれ嬢とはおよそ反対の立派な男子で、皮肉な対照《たいしよう》をなしていると感じたことであった。が、しかし、彼はあまりながくこの美貌《びぼう》の青年に見惚《みと》れていることが出来なかった。というのは、残るもう一人の人物が、彼の注意力の殆んど全部を吸取ってしまったからである。そのことは、田鍋課長にとっても亦《また》同様であった。
(あれは赤見沢博士に相違ないが、一体どういうわけで博士はここにいるんだろうか)と帆村は不審《ふしん》の目をぱちくり。課長の方は(誰が赤見沢博士を病院から出したんだろうか、わが輩《はい》の許可を得もしないで……。何奴《どいつ》が出したか、怪《け》しからん奴《やつ》どもだ)
 と、かんかんになって、頭から汗が出て来た。
 その赤見沢博士は、肘懸椅子《ひじかけいす》に凭《もた》れ、頭を後の壁につけていたが、その恰好がへんにぎこちなかった。博士はまだ意識|混沌《こんとん》としているので、あのような恰好をしているのであろうが、両眼を大きく明けているのが、ちと腑《ふ》に落ちかねる。
 そのときであった。小山すみれが脚立《きゃたつ》から下りて、二本の綱を引張って、赤見沢博士の傍へ来た。その綱は、天井から垂《た》れていた。よく見ると、天井には滑車《かっしゃ》がとりつけてあり、綱はそれに掛っていて、上下自在になっていることが分った。
 小山女史は、その綱の一本を、いきなり赤見沢博士の頸《くび》にぐるぐるっと巻きつけた。顔色一つ変えないで……。美貌《びぼう》の男は、あいかわらずにこにこ笑っている。小山嬢は綱に結び目をつくると二三歩うしろへ身を引いて、もう一方の綱をぐんぐんと下にたぐった。すると博士の頸に搦《から》みついている綱がぴーンと張った。それでも小山嬢は、自分の手にある綱をぐんぐんと下にたぐった。博士の身体が椅子から浮きあがった。小山嬢が綱をたぐるたびに、博士の身体は上へ吊りあげられた。博士の絞首刑《こうしゅけい》である。それを自らの手によって行っている小山すみれの顔は、始めと同じく無表情で、悔恨《かいこん》の色もなければ憎
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