をおさえつけていた助手の一人が、
「あっ」と叫ぶと、
「先生、この死骸は生きているのじゃないでしょうか。心臓の鼓動らしいものを感じます」と、早口でいった。
「ばかなことをいうな。私は何度も聴診したが、心臓の鼓動なんて一度も聞えなかった。それに、ほら、こんなに冷《ひ》え切っている……」
と、甲斐博士は、怪物の死骸に手をふれて助手を叱りつけようとしたが、そのとき博士の顔色は、なぜかさっと変って、紙のように白くなった。
消え行く怪物
甲斐博士が、恐しそうに身を後に引くのと、怪物の死骸がぴょんと跳《は》ね上がるのとが同時であった。
「あっ」
解剖に立会っていた者で、青くならない者はなかった。
怪物の死骸――いや、死んだものとばかり思っていた、その怪物の身体は、解剖台の上に突立った。あまりのすごさに、人々は思わず下にひれ伏した。
と、怪物の身体は、台の上で独楽《こま》のようにきりきりと舞いだした。それが見るまに台から上にとびあがったと思うと、天幕《テント》を頭でつきあげた。ばりばりぷつんと、天幕の紐《ひも》が切れる音が聞えた。すると天幕がばさりと下に崩れ落ち、次にその天幕は地上を滑って走りだした。その後で、解剖台が大きな音をたててひっくりかえったので、人々はびっくりして目をとじた。
やがて人々が目を開いたときには、天幕はもう百メートルも向こうの山腹を走っていくのが見えた。なんといっていいか、その奇怪な光景は、文章にも絵にも書きあらわせない。
「追え。あれを追え」
そう叫んだのは、隊長の室戸博士の声だった。若い助手たちは、隊長の声に、ようやく我にかえった。そして青い顔のままで、逃げて行く天幕のあとを追いかけた。
「追いつけないようだったら、ピストルで撃ってもいいぞ」
隊長室戸博士は、金切声《かなきりごえ》で、助手たちの後から叫んだ。
駆けだす天幕の足は早かった。助手たちは息切れがしてきた。そして天幕との距離はだんだん大きくなっていく。
「撃とう。仕方がない。撃っちまえ」
「よし」
助手は立木に身体をもたせて、逃げる天幕めがけて、どかんどかんとピストルをぶっ放した。銃声はものすごく木霊《こだま》した。だが天幕は、あいかわらず走りつづけるのであった。
「あれっ、たしかに命中したはずだが……」
天幕はそれでもなお走った。そして山腹の途中の坂を下った。助手はピストルを撃つのをやめて、また追いかけた。
その坂が見下せるところまで、時間でいってわずか五分ばかりのところだった。そこへまっ先にのぼりついたのは、助手の児玉という法学士だった。彼は坂の下に、天幕が立ち停っているのを発見した。それを見たとき、彼の足はすくんで動かなくなった。怪しい天幕が、彼に戦《たたかい》をいどんでいるように見えたからである。
ようやく後から来た助手たちも追いついた。そこで若い連中は勢《いきおい》をもりかえし、
「それ行け。今のうちだ」
と、大勢で突撃して行った。
天幕は、一本の松の木にひっかかり、風に吹かれてゆらゆら動いていた。だが、目ざす緑色の怪物の姿は、どこにもなかった。
「どこへ行った。あの青とかげの化物は……」
皆はそこら中を探しまわった。しかし緑色の怪物は、どこにも見えなかった。
「見えないね。どこへ行ったろう」
ふしぎなことである。たしかに天幕をかぶったままで走って、ここまで来たに違いないのに……。
「あっ、あそこだ。あそこにいる」
児玉法学士が、するどい声で叫んで、右手を前方へのばした。
「えっ、いたか。どこだ」
「あの岩の上だ。あっ、見えなくなった。ふしぎだなあ」
「ええっ、ほんとうか。どこだい」
児玉法学士の指さす方に、たしかに裸岩が一つあった。しかし怪物の姿は見えなかった。後からかけつけた連中は、児玉がほんとうに岩の上に怪物の姿を見たのかどうかを疑って、質問の矢をあびせかけた。
これにたいして児玉は、すこし腹を立てているらしく、頬をふくらませて答えた。
「……怪物めは、あの岩の上に、立ち上ったのだ。さっき解剖台の上で立ち上ったのと同じだ。それから身体を軸としてぐるぐる廻《まわ》りだした。すると怪物の身体がふわっと宙に浮いて、足が岩の上を放れた。竹蜻蛉《たけとんぼ》のようにね。とたんに怪物の姿は見えなくなったのだ。それで僕のいうことはおしまいだ」
「へえっ、ほんとうなら、ふしぎという外はない」
「君たちは、僕のいうことを信用しないのかね」
「いや、そういうわけじゃないが、とにかく君だけしか見ていないのでね」
緑色の怪物を最後に見た者は、この児玉法学士だけであった。それ以後には、誰も見た者がなかった。そして緑色の怪物にたいする手がかりは、これでまったく終りとなった。
いったいあの怪物はどこへ行ってしまったの
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