にしろ、しりぞくにしろ、ここで一秒たりともためらっていることはゆるされないのだ。彼は、ついに決心した。
「こらッ、竹の野郎! もう誰がなんといっても、おれがゆるしちゃおかないぞ。手前《てめえ》の生命は、おれがもらった!」
すさまじく憤怒《ふんど》の色をあらわし、なかなか芝居に骨がおれる丸本は、竹見の手首を縛った麻紐を、ぐっと手元へ二度三度|手繰《たぐ》った。
すると竹見の身体は、とんとんと前へとびだして、つんのめりそうになった。
「うん、野郎!」
ハルクが、たくましい腕をのばして、横合《よこあい》から麻紐をぐっと引いた。
とたんに、麻紐が、ぷつんと切れた。
「あっ」
「うーむ」
丸本も竹見も、前と後《うしろ》のちがいはあるが、ともにどっと尻餅をついて、ひっくりかえった。巨人ハルクさえが、あやうく足をさらわれそうになった。――麻紐は、なぜ切れたのか。それは丸本の早業だった。手ぐるとみせて、彼は手にしでいたナイフで、麻紐をぷつんと切断したのであった。
巨人ハルクは、ゴリラの如く、いかった。
「な、生意気な! もう勘弁がならないぞ!」
と、大木のような両腕をまくりあげて、じりじりと前へ出てくる。
これを見て、おどろいたのは、丸本よりも平靖号の事務長だった。いや、事務長ばかりでない。その後につきしたがう平靖号の乗組員たちであった。いよいよこれは、ものすごい乱闘になるぞ、そうなると、最早《もはや》生きて本船へかえれないかもしれないと、顔色がかわった。
丸本も、立ち上って、今はこれまでと、みがまえた。
巨人ハルク、その後に水夫竹見、そのまた後に、ノーマ号のあらくれ船員どもがずらりと、一くせ二くせもある赤面《あかづら》が並んで、前へおしだしてくる。ノーマ号の甲板《かんぱん》上に、今や乱闘の幕は切っておとされようとしている。
甲板のうえは、たちまち鼻血で真赤に染まろうとしている。こうなっては、どっちも引くに引かれぬ男の意地、さてもものすごい光景とはなった。
俺は若い!
「みんな、停《や》めろッ!」
とつぜん、晴天の雷鳴《らいめい》のように、どなった者がある。
船長だ。ノーマ号の船長、ノルマンだ。いつの間にか、船長ノルマンは、双方《そうほう》の間へとびだしていた。
「おお」
「うむ、いけねえ」
双方とも、ぎくりとして、にぎりこぶしのやり場に当惑《とうわく》した。
「こらッ、喧嘩《けんか》したいやつは、こうして呉れるぞ」
ノルマン船長の足が、つつと前に出たかと思うと、彼の両腕が、さっとうごいた。と思うとたんに、彼の両腕には、すぐ傍にいた平靖号の水夫一名と、ノーマ号の水夫一名とが、同じく襟《えり》がみをとられて、猫の子のように、ばたばたはじめた。このほそっこい船長には、見かけによらない力があった。そのまま船長は、つつッと甲板をはしって、
「えいッ。」
というと、二人の水夫を、舷からつきおとした。おそるべき力だ。船長は、或る術を心得ているのかもしれない。
どどーンと、大きな水音《すいおん》がした。
「どうだ。後の奴も、海水の塩辛《しおから》いところを嘗《な》めて来たいか。希望者は、すぐ申出ろ」
と、威風堂々と、あたりを見まわしたが、そのいきおいのはげしいことといったら、見かけによらぬノルマン船長の怪力を知らない者は、窒息《ちっそく》しそうになったくらいである。
「おい、みんな。帰船だ」
事務長は、そういって、ノルマン船長に、型ばかりの挙手の礼をおくると、自分はいそいで、舷側に吊った縄梯子《なわばしこ》の方へ歩いていって、足をかけた。
丸本が、その後につづいた。
そうして、一同は、大急ぎで縄梯子をおりて、ボートにうちのった。
「漕《こ》げ!」
事務長は、舵《かじ》をひきながら、命令した。
「竹見の奴は、あのままでいいのですか」
と、一人の水夫が聞いた。
「うむ――」
と、事務長は、答えにつまった。
「仕方がないじゃないか。それとも、お前に智恵でもあるか」
これは丸本の言葉だった。
水夫は、だまってしまった。
ボートは、だんだんとノーマ号からはなれていく。事務長は、舵をとりながら、ノーマ号の船上に、脱走水夫竹見のすがたをもとめたが、どこにいるのか、さっぱり分らなかった。ただそこには、ノーマ号の水夫たちが、おもいおもいに、こっちを馬鹿にしきったかおで、見おくっていた。
まったくのところ、馬鹿にされたようなこのボート派遣であった。
さて竹見は、一体どうしたのであろうか。彼は、前から退船の意志をもっていた。その理由は、虎船長に具申《ぐしん》したたびに、後にしろとかたづけられてしまったが、彼の真意は、駆逐艦松風の臨検隊員をむかえて、ああ自分も志願して、天晴れ水兵さんになって、軍艦に乗組み、正
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