なことは絶対にありません。私は……」
 といっているとき、横から一等運転士の坂谷が
「船長。ノーマ号が、本船に“用談アリ、停船ヲ乞ウ”と信号旗をあげました。いかがいたしましょうか」
「なに、用談アリ、停船ヲ乞ウといってきたか。どれ、向うはどういう様子か」
 船長は、ノーマ号の様子をみるため、一旦双眼鏡を目にあてようとしたが、気がついて水夫竹見太郎八の方を向き、
「お前のはなしは、後でよく聞こう。それまでは下にいってはたらいていろ。じつに厄介《やっかい》なやつだ」
 と、はきだすようにいった。
 ノーマ号は、もうすこしで平靖号と並行しそうな位置まで近づいていた。そしてヤードにはたしかに用談アリ、停船ヲ乞ウの信号が出ていた。甲板を見わたすと、赤い髪に青い眼玉の船員や水夫が、にやにやうすわらいしながら、こっちを見おろしていた。
 虎船長は、うむとうなって、
「用談とは何の事だ。聞きかえしてやれ」
 といった。
 信号旗は、こっちのヤードにも、するするとあがった。
 すると、すぐノーマ号から返事があった。
“飲料水、野菜、果実ノ分譲ヲ乞ウ。高価ヲ以テ購《あがな》ウ”
 それを見て虎船長は、
「駄目だ。本船にも、その貯蔵がすくないから、頒《わ》けてやれない。香港《ホンコン》か新嘉坡《シンガポール》へいって仕入れたらよかろうといってやれ」
 と、命令した。
 その信号は、再び平靖号のヤードに、一連《いちれん》の旗となってひらひらとひるがえった。
 すると、また折かえして、ノーマ号からの返事があった。
“ゼヒ分譲タノム。量ノ如何ヲ問ワズ、本船ニ[#「本船ニ」は底本では「本船に」]壊血病《かいけつびょう》多数発生シ、ソノ治療用ニアテルタメナリ”
 ノーマ号は、壊血病患者がたくさん発生しているから、ぜひ野菜や果実をわけてくれという信号なのである。
「壊血病とは、気の毒じゃ」と、虎船長はいって、くびをふった。
「じゃあ、すこしわけてやることにするか」
 と、いって、事務長の方をふりかえった。
「でも、本船の貯蔵量は、ほんとにぎりぎり間に合うだけしかないのですから、どうですかな」
 事務長は、分譲に反対の口ぶりだった。
「うむ、まあ海のうえでは、船のりと船のりとは相身互《あいみたが》いだ。すこしでいいから、なんとか融通してやったらどうじゃ」
 虎船長は、若い日の船乗り生活の追憶からして、相身互いの説もちだした。
 事務長は、だまっていると、傍にいた一等運転士の坂谷が、船長と事務長の間にわって入り、
「じゃあ、こうしてはどうですかなあ。こっちからノーマ号へ出かけていって、むこうのいうがごとくはたして壊血病患者がどんなに多数いるかどうかをたしかめたうえで、野菜や果実をわたしてやったがいいではありませんか」
 坂谷は、なかなかうまいことをいった。
「ああ、それならよかろう。事務長も、賛成じゃろう」
 と虎船長は、事務長の同意を確かめたうえで、飲料水一斗、野菜二貫匁、林檎三十個を、ボートで持たせてやることにして、その指揮を事務長にやらせることにした。
「よろしい、行ってきます」
 事務長は、気がるに立ち上った。
 そのときであった。
「船長。私も、事務長と一緒に、ノーマ号へやってください」
 船橋の入口に立っていた水夫竹見が、いきなり船長の前へとびだしてきた。
「ううっ、竹見か、お前は、行くことならんぞ。下船《げせん》したいなどといい出すふらちなやつだ……」
「ちがいます。私が下船したいといったのは……」
「だまれ、竹見」と船長は、あかくなってどなりつけた。
「わしは船長として貴様にめいずる。只今からのち貴様は本船内で一語も喋《しゃべ》ってはならん。しかと命令したぞ。下へいって、謹慎《きんしん》しておれ」
 船長は竹見に対して、たいへん不機嫌をつのらせるばかりだった。
 一体竹見は、なぜ下船したいなどと、とんでもないことをいいだしたものであろうか?


   意外な人物


 ノーマ号では、飲料水などを、平靖号が頒《わ》けてやってもいいという返事に、いろめきわたった。だが、ノーマ号からボートを下そうといったのに対し、平靖号は、こっちが品物をボートに積んでそっちへいくといって聞かないので、ちょっと当惑をしたらしく、しばらくは、その返事をよこさなかった。
 やがてのことに、やっと応諾《おうだく》の返事が、ノーマ号からあがったので、いよいよ事務長はボートを仕立てて、六人の部下とともに海上に下りた。
 事務長は、みずから舵《かじ》をひいた。
 飲料水と野菜と果実とは、舳にあつめられ、そのうえに大きなカンバスのぬの[#「ぬの」に傍点]をかぶせてあった。
 虎船長は、本船をはなれていくボートをじっとみていたが、側をかえりみて、
「おい、一等運転士。あの荷は、ばかに大き
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