火葬国風景
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)甲野八十助《こうのやそすけ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)療養|叶《かな》わず

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)不審のかぶり[#「かぶり」に傍点]を振った。
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   甲野八十助《こうのやそすけ》


「はアて、――」
 と探偵小説家の甲野八十助は、夜店の人混みの中で、不審のかぶり[#「かぶり」に傍点]を振った。
 実は、この甲野八十助は探偵小説家に籍を置いてはいるものの、一向に栄《は》えない万年新進作家だった。およそ小説を書くにはタネが要《い》った。殊《こと》に探偵小説と来ては、タネなしに書けるものではなかった。ところで彼は或る雑誌社から一つの仕事を頼まれているのであるが、彼の貧弱な頭脳の中には、当時タネらしいものが一つも在庫していなかった。逆さに振ってものみ[#「のみ」に傍点]一匹出てこないという有様だった。苦しまぎれに、彼はいつもの手で、フラリと新宿の夜店街へ彷徨《さまよ》いいでた。いつだったか彼はその夜店街で、素晴らしいタネを拾った経験があったので、今夜ももしやというはかない望みをつないでいたのだった。
「はアて、あいつは誰だったかナ」
 甲野八十助は、寒い夜風に、外套の襟を立てながら、また独言《ひとりごと》をいった。
 彼はいまそこの人混みの中で、どこかで知り合ったに違いない男と不図《ふと》擦《す》れちがったのだった。その男というのがまた奇妙な人物だった。非常に背が高くて、しかも猫背で、骨と皮とに痩せていた。眼の下には黒い隈《くま》が太くついていて、頬には猿を思わせるような小じわ[#「じわ」に傍点]が三四本もアリアリと走っていた。そして頭には、宗匠の被《かぶ》るような茶頭巾を載せ、そのくせ下は絹仕立らしい長い中国服のような外套を着ていた。そして右手には杖をつき、歩くたびにヒョックリヒョックリと足をひいていた。
「やあ、――」
 と甲野八十助は、そのときこの奇妙な男に声をかけたのだった。彼は至って顔まけのしない性質だったから……。
「いよオ――」
 と相手は口辺に更に多数の醜いしわ[#「しわ」に傍点]の数を増しながら、ガクガクする首を前後に振り、素直に応じたのだった。
 八十助はそれで満足だった。それ以上、何を喋ろうという気もなかった。そのまま、この知人と別れて、同じ人混みをズンズンと四谷見附《よつやみつけ》の方へ流れていったのだった。
(あいつは、誰だったかナ)
 八十助には、いま挨拶を交《かわ》した奇妙な男の素性を思い出すことが、何だか大変楽しく思われて来た。それでソロソロこの楽しい一人ゲームを始めたのだった。
 だが、思う相手の素性は、いつまで経っても、彼の脳裏に浮びあがりはしなかった。
「誰だったか。あいつの素性よ、出てこい、――」
 八十助は、小学校の友人から出発して、中学時代、大学時代、恋愛時代、それから結婚時代、さらに進んで妻と死別した後の遊蕩《ゆうとう》時代、それから今の探偵小説家時代までの、ことごとくの時代の中に、彼の奇妙な男の姿を探し求めたけれど、どうもうまく思い出せなかった。ついそこまで出ているだが[#「出ているだが」はママ]、どうも出て来ないのであった。彼はすこしジリジリとして来た。
 そのとき彼は、大きな飾窓《ウインド》の前を通りかかった。そしてそこに並べてある時事写真の一つに眼を止めた。「逝《ゆ》ける一宮大将《いちのみやたいしょう》」とあって、太い四角な黒枠に入っている厳《いか》めしい正装の将軍の写真だった。その黒枠を見たとき、彼は電光の如《ごと》く、さっきの奇妙な男の正体を掴んだのだった。
「うん、彼奴《あいつ》だッ。――」
 そう叫んだ彼は、不思議にも、叫び終ると共に、なぜかサッと顔色を変えた。何故何故《なぜなぜ》?


   鼠谷仙四郎《ねずみやせんしろう》


「そうだ、彼奴だ。彼奴に違いない!」
 螳螂男《かまきりおとこ》への古い記憶が電光のようにサッと脳裏に映じた。黒枠写真を見たときに、どうして彼奴のことを思い出したのであろうか。それはいわゆる第六感というものであろうが、不思議なこととて気になった。しかし後日になってその不思議が解ける日がやってきたとき、八十助は呼吸《いき》の止まるような驚愕を経験しなければならなかったのである。
「そうだ、彼奴は姿こそ変り果てているが、鼠谷仙四郎に違いない!」
 鼠谷仙四郎――という名前を口のなかで繰返していると、八十助は小学校へ上ったばかりのあの物珍らしさに満ちた時代を思い出す。木の香新しい、表面がツルツル光っている机の前に始めて座った時、その隣りに並んでいるオズオズした少年が鼠谷仙四郎君だった。そのころの鼠谷は、顔色は青かったが、涼しいクリクリする大きい眼を持ち、色は淡《うす》いが可愛い小さい唇を持った美少年だった。たまたま机を並び合ったというので、二人の少年はすぐ仲善《なかよ》しになってしまった。この仲善しは、年と共に濃厚になり、軈《やが》て大学を卒業すると二人はこれまでのように毎日会えなくなるだろうというので、女学生もやらないだろうと思われるほどの大騒ぎを起したのだった。
 その揚句《あげく》、八十助と鼠谷とは一つのうまい方法を考えた。そのころ二人とも勤め先が決っていて、八十助は丸の内の保険会社に、鼠谷の方は築地《つきじ》の或る化粧品会社へ通勤することになっていた。それで申し合わせをして午後の五時ごろ、二人が勤め先を退けるが早いか、距離から云ってほぼ等しい銀座裏のジニアという喫茶店で落合い、そこで紅茶を啜《すす》りながら積もる話を交わすことにしたのだった。これは大変名案だった。二人はすっかり朗《ほがら》かになり、卒業のときに大騒ぎをしたのが可笑《おか》しく思われてならなかった。
 ところがこの名案ジニアのランデヴー(?)は名案には違いなかったが、彼等二人の交際に思いがけない破局を齎《もたら》すことになったのも運命の悪戯《いたずら》であろうか。それはこの喫茶店に、露子という梅雨空《つゆぞら》の庭の一隅に咲く紫陽花《あじさい》のように楚々《そそ》たる少女が二人の間に入ってきたからであった。
「鼠谷さんは、そりゃ親切で、温和《おとな》しいからあたし好きだわ」
 と朋輩にいう露子だったが、また或るときは
「甲野の八十助さんは、明るいお坊ちゃんネ。あたしと違って何の苦労もしてないのよ、いいわねエ」
 とも云った。
 昨日の親友は今日の仇敵《てき》となり、二人は互に露子の愛をかちえようと急《あせ》ったが、結局恋の凱歌は八十助の方に揚がった。八十助と露子とが恋の美酒に酔って薔薇色の新家庭を営む頃、失意のドン底に昼といわず夜といわず喘ぎつづけていた鼠谷仙四郎は何処へともなく姿を晦《くら》ましてしまった。そのことは八十助と露子との耳にも入らずにいなかった。流石《さすが》に気になったので、探偵社に頼んで出来るだけの探索を試みたりしたが、鼠谷の消息は皆目《かいもく》知れなかった。これは屹度《きっと》、人に知れない場所で失恋の自殺をしているのかも知れないと、二人は別々に同じことを思ったのだった。
 ところがそれから三年経って、八十助は妙な噂を耳にした。それは鼠谷仙四郎が生きているというニュースだった。しかも彼は、同じ東京の屋根の下に、同じ空気を吸って生きていたのである。彼の勤め先というのは、花山火葬場の罐係《かまがかり》であった。
 当分は、彼は勤めに出ても、鼠谷のことが気になって仕事が手につかなかったが鼠谷は、別に彼等夫妻に危害を加えようとする気配もないばかりか、次の年にはチャンと人並な年賀状を寄越したりした。そんなことから八十助夫妻は、始めに持った驚愕と警戒の心をいつともなく解いていった。一年二年三年と経ち、それから五年過ぎた今日では、八十助にとって鼠谷仙四郎はもう路傍《ろぼう》の人に過ぎなかった。それには外にもう一つの理由があった。というのは、八十助の恋女房の露子が、この春かりそめの患いからポツンと死んでしまったため、彼は亡妻《なきつま》を争った敵手のことなんかいよいよ忘れてしまったのである。
 その鼠谷仙四郎が、こうして久し振りで目の前に現われたりしなければ、八十助は一生涯彼のことを思い出すことなどはなかったであろうのに……。
「ハテナ……」
 と、そのとき何に駭《おどろ》いたのか、八十助は舗道の上に棒立ちとなった。彼はつい今まで忘れていた重大なことを思い出したのだった。
「ハテ……、鼠谷仙四郎なら、あいつは確か死んでしまった筈だったが……」


   暗鬼は躍る


「鼠谷仙四郎なら、生きている筈がない!」
 八十助が顔の色を変えたのも無理はなかった。なぜなれば、いまから二三ヶ月ほど前、彼はハガキに印刷した鼠谷仙四郎の死亡通知を受取ったことを思い出したからだ。なぜそのような重大なことを度忘れしていたのだろう?
 その文面には、たしかに次のような文句があったと思った。
[#ここから2字下げ]
「……鼠谷仙四郎儀、療養|叶《かな》わず、遂に永眠|仕候間《つかまつりそうろうあいだ》、此段謹告候也《このだんきんこくそうろうなり》。
追而《おって》来る××日×時、花山祭場に於て仏式を以て告別式を相営み、のち同火葬場に於て荼毘《だび》に附し申可く候《そうろう》……」
[#ここで字下げ終わり]
 この文面から推《お》せば、彼はたしかに病気で死亡し、その屍体はたしかに火葬せられたのだった。しかも皮肉なことに、彼が生前世話を焼いていた花山火葬場の罐の中で焼かれ、灰になってしまった筈だった。尤《もっと》も稀には死人がお葬《とむらい》の最中に甦《よみがえ》って大騒ぎをすることもないではないが、それは極《きわ》めて珍らしいことで、もしそんなことがあれば、鵜《う》の目|鷹《たか》の目で珍ダネを探している新聞記者が逸《いっ》する筈はなかった。しかし最近の新聞記事にはそんな朗かな報道がなかったことから推して、かれ鼠谷の死体は順調に焼場の煙突から煙になって飛散したに違いあるまい。すると……?
 すると八十助は、今しがた其処の夜店街の人込みの中で、旧友鼠谷仙四郎の、幽霊を見たことになる。
「ううッ――」
 彼はガタガタ慄《ふる》えだした。そして外套の襟を咽喉《のど》のまえで無暗《むやみ》に掻きあわせた。もうこうなっては小説のタネのことなどを考えている余裕はなかった。なんだか脳貧血に襲われそうな不安な気持になった。そこで彼は、通りかかった一軒の酒場の扉をグンと押して、中へ飛びこんだ。
「ブランデーを……。早くブランデーを……」
 給仕の小娘を怒鳴りつけるようにして、洋酒の壜を催促した。彼の前にリキュール杯が並ぶまでの僅かな時間さえ、数時間経ったように永く感ぜられた。ブランデーの栓を抜こうとする小娘の手を払いのけて、彼は自《みずか》らグラスに注いだ。ドロドロと盛りあがってくる液体をグッグッと、立てつづけに四五杯もあおった。腸の中がカッと熱くなってきて、やがて全身に火のような熱い流れが拡がっていった。
「ふーッ」
 と彼は溜息をついた。
(ああ、助かった!)
 と彼は心の中で叫んだ。そしてまたしてもグラスを手に取上げた。気が次第に落着いて来て、始めてあたりの閑寂《かんじゃく》な空気に気がついた。
 八十助の座席の隣では、二人の男が物静かな会話をつづけていたそれを聞くともなしに、彼は聴いた。
「……というわけでネ」と紋付羽織の男が言った。「どうも変なのだ一宮大将ともあろうものがサ、まさか株に手を出しやしまいし、死の直前に不動産を全部金に換え、しかもそいつを全部使途不明にしてしまい、遺族は生活費の外に一文も余裕がないというのだからネ」
「それに変だといえば、大将の急死がおかしい。いくらなんでも、あんなに早く逝くものかネ」
「僕は大将の邸で、変な男を見かけたことがある。肺病やみのカマキリみたいなヒョロ長く、そして足をひいている男さ。あいつ
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