せるだろうと思って気の毒に眺めていたが、その心配はすっかり無駄に終った。何故《なぜ》なら金魚は焔の下の水中で、嬉々として元気に泳ぎつづけていたからである。
 焔が水中の金魚を焼かないとすると、焔は何を焼くだろうかと、急に心配になった。すると紅蓮の焔はまるで生物のように八十助の存在を認めて、そのメラメラといきり立つ火頭を彼の方に向け直すと、猛然と激しい熱風を正面から吹きつけた。
「うわーッ」
 八十助は駭いて後方へ飛びのいた。焔は執拗に追いかけてきた。彼は夢中で駈けだした。ドンドン駈けて駈けてつづけた[#「駈けて駈けてつづけた」はママ]。
 あまり一生懸命に駈けたので、気がついたときには、全く思いがけない場所に仆《たお》れている自分に気がついた。振りかえってみたが、もう焔は見えない。どこにも火が見えない。八十助の周囲には涯しない永遠の闇が続いていた。火焔の脅迫は去ったが、それに代り合って闇黒の恐怖がヒシヒシと迫ってきた。全く何も見えない無間地獄の恐怖が……。
 彼は首を動かしてみた。頭の下に固いものが触れた。彼は地獄の底に、仰向きになって寝ているのだということが判った。なんだか頭の芯がピシピシ痛む。彼は手を痛む額の方へ伸ばした。そのとき思いがけなくも、伸ばした手が胸より少し高いところで何か固いものにぶつかり、ゴトリと響を立てた。
 鼻をつままれても判らぬ暗闇の中に、ゴトリと手の先に当ったものは、一体何だったであろうか。
 ゴトン、ゴトン。
(ム。――これは板らしい!)
 八十助は、ゴトリと手先に触れたものを、板と感じた。板なればどこにある板であろうか。彼は手首を真直に立てて、上の方をさぐった。だが何にも触れない。こんどは腰をすこし浮かしてみた。そして手首をまた動かしてみた。果然なにか手先に触れた。
 ゴトン、ゴトン。
(あッ、――上も板だ)
 横も板、上も板、下も板らしい。足先で裾の方をさぐってみると、これも板、それなれば頭の上の方も板に違いない。するとこれは一体どんなところへ来ているのだろうか。四方八方板で囲まれたところといえば……。
「おお、そうだッ。――」
 八十助の心臓は、早鐘のように鳴りだした。
「これは棺桶の中だ。棺桶の中に違いない!」
 彼の胸には、急に千貫もあろうという大石を載せられたように感じた。棺桶の中に入れられている。いつの間に入れられたのか。彼は人事不省《じんじふせい》から醒めて、生きている悦《よろこ》びを、やっと感じたばかりだったが、その悦びは束の間に消え去った。いくら生きていても、棺桶の中に入れられていては、どうしようもない。彼は望みがないと知りつつも、手足や首をゼンマイ仕掛けの亀の子のようにバタバタ動かした。ドカンドカンと板の上を叩いた。叩いているうちに不図《ふと》気がついた。
(こうして叩いていれば、誰かが発見してくれるかも知れない)
 八十助は、彼の入った棺桶がどこかの祭壇に置かれている場面を想像した。しかし何のザワメキも鐘の声も聞えないところから見れば、それはまず当っていなかった。
(それでは、死体収容所かも知れない?)
 死体収容所なれば、森閑《しんかん》としているのも無理がない筈だった。そうだ、そうだ。死体収容所であろうと思った。それで彼は、しばらく暴れることを中止して、両方の耳を澄ました。外部から何の音も響いてこないことを確かめるためだった。
「いーや。……何か聞こえる!」
 彼はハッと胸を衝《つ》かれたように感じた。何か聞えるのであった。あまり大きい声ではなかったが、水道の栓をひねったときにするようなシュウシュウという音が聞えて来た。
「何だろう、あのシュウシュウいう音は?」
 そのうちに、ドンドンというような音が交って来た。その間にカーンと、金属の触れ合うかん[#「かん」に傍点]高い音が交って聞えた。
「おや。――」
 それは、どこかで聞いたことのある音響だった。ドンドンという低いながらも、底力のある物音が地鳴りのように、八十助の腹の底を打った。彼は呼吸《いき》をこらし、身体をすくめてその異様な物音に聞き入った。
 パチパチというような音が交り始めたと思う間もなく、今度は八十助の身体が、不思議に熱くなって来た。考えてみると、先刻から気がつかなければならなかったことだが、彼が暗黒の箱の中で気がついてからこっち、室内は春のように暖かだった。厳冬の真唯中だというに、まるで春のような暖かさは不思議だった。ところがいま急に熱くなって来たのでこの異様な温度の上昇に気がついたというわけだった。
「何が始まったのだろう?」
 と思ううちに、パッと眼の先が明るくなった。といっても暁《あけがた》に薄っすりと陽の光りがさしこんでくる位の明るさだった。奇態なことに、別に臭気というものを感じなかったけれど、――それは後に至って、一種の瓦斯《ガス》マスクが懸けられていたので、臭気を感じなかったことが判った――このパッと差し込んだ明るさと、パチパチと物の焼け裂けるような音響とは、八十助に絶望を宣告したも同様だった。彼の脳裏には、始めてこの不思議な場所についての一切が判明した。
「ううッ。これは火葬炉の中だッ。もう火がついて、棺が焼けはじめたのだッ。ああ、俺はどうなる!」
 彼は、上下の歯をギリギリと噛み合わせた。


   思いあたる怪夢


 所もあろうに八十助は、自分自身を、焼場の火葬炉の中に発見したのだった。
(生きながらに焼き殺される!)
 ああ、何という恐ろしいことだ。生きていると気がついて悦んだのも束の間、次の瞬間、身に迫って来たものは、生きながらの焦熱地獄だった。死んで焼かれるのなら兎《と》に角《かく》、生きながら焼き殺されるなんて、そんなむごいことがあろうか。八十助は焔が手足をいぶらせ焔が毛髪にメラメラ燃え移る場面を想像した。――彼は当てのない呪いの言葉を口走った。
「ククククッ――」
 どこからか忍び笑いが聞えて来た。その声には充分――聞き覚えがあった。彼奴《あいつ》だ! 鼠谷仙四郎奴が笑っているのだ。それを合図のように、火は一きわ激しくドンドンと燃えさかった。
「うぬ、悪魔奴《あくまめ》! 悪魔奴!」
 彼は動けぬ身体を、自暴《やけ》に動かした。そのために、身体を堅く縛っている麻縄が、われとわが肉体に、ひどく喰い込んだ。もうこうなっては、麻縄のために、手首がちぎれて落ちようと、太股がひき切られようと、そんなことは問題外だった。身体の一部分でもよいから、自由になりたい。そして火のつこうとしているこの棺桶の板をうち破りたい……。
「ううーッ……うぬッ」
 八十助は血と汗とにまみれながら、獣のように咆哮し、そして藻掻《もが》いた。
 そのときだった。実にそのときだった。
 なんだか一つの異変が、横合から流れこんで来た。それは有り得べからざる奇蹟の様に思われた。一陣の涼風が、どこからともなくスーッと流れこんで来たのだった。
「……?」
 八十助は藻掻《もが》くのを、ちょっと止めた。
(どうしたのだろう?)
 何事か起ったらしい。
 焼けつきそうだった皮膚の表が急に涼しくなった。
 そして、焦げつきそうな痛みがすこしずつ取れてゆくように思った。
(罐《かん》の火が消えたかナ!)
 と思ったが、しかし罐の火はいよいよ明るく燃えさかっているらしいことが、棺の蓋《ふた》の隙間から望見された。罐は盛んに燃えている。それだのに、棺の中にいるわが身は急に楽になったのだ。
 ポツーン。
 そのとき何か冷いものが、胸のあたりに落ちてきた。
「おや。――」
 と彼は叫んだ。その声のすむかすまないうちに、つづいてポツリポツリと冷いものが上から降って来た。
「ああ、水だ。――水が洩れてくる」
 彼の元気は瞬間のうちに回復した。気が落着いて来た。助かるらしい。八十助は両眼をグルグル廻して何物か見当るものはないかと探した。有った、有った。棺の隙間から見える真赤な火の幕、その火の幕すこし手前の、おそらく棺桶のすぐ外と思われるところに、空間を斜に硝子管が走っているのを認めた。そしてその硝子管の中には、小さい水泡を交ぜた透明な液体が、たいへんな勢いで流れているのだった。それは水に違いなかった。さっきポツンと胸の上に落ちて来た水と同じところから、供給されている水に違いなかった。
(ああ、なんたる不思議! 火葬炉の中に、冷水装置がある!)
 人体を焼こうとするところに、逆に冷やす仕掛けがあるというのは、何と奇妙なことではないか。このとき彼はゆくりなく、あの変な夢のことを思い出した。
「硝子の金魚鉢の水の中に、金魚が泳いでいて、――それで水の表面には火焔の幕があった。――ああ、あれだッ」
 火焔の天井を持った水中の金魚のように、いま彼の身体も、冷水装置でもってうまく火気から保護されているのだった。
「これア一体、俺をどうしようというのだッ」
 八十助は、あまりにも不審な謎をどう解いてよいかに苦しんだ。
 そのとき、ギギーッという物音が聞えはじめたと思うと、彼の横たわっている棺桶は、しずかに揺れながら、どうしたのか、下の方へ下りだした。


   棺桶は飛ぶ


 火葬炉の中で、不思議に焼けもせず、八十助の入っている棺桶は、しずしずと下へおり出した。
(これは?)
 と面喰っているうちに、棺桶は下へおりきったものと見え、ゴトンという音とともに動かなくなった。そのうちにゴロゴロという音が聞え、棺桶は横に滑り出した。トロッコのようなものに載せられて、引張りだされているという感じであった。これらはすべて、暗黒の中で取行われたが、そのうちにまた、仄明《ほのあか》るい光りが差した。それはどうやら太陽の光りではなく、電灯の光りのようであった。もし八十助が、瓦斯《ガス》マスクをかけられていなかったなら、このときプーンと高い土の香りを嗅いだことであろう。たとえば掘たての深い地下|隧道《とんねる》をぬけてゆくときのように。
 そこへ、ヒソヒソと、人間の話し声が聞えてきた。何を云い合っているのか、一向に意味がわからない。そうこうしているうちに、棺桶は人間の肩に担《かつ》がれたようであったが、ゴトンと台の上らしいところへ載せられた。そして間もなく、シュウ、シュウという音響が聞えて来て、青い光芒が棺の隙間から見えた。
「クックックッ」
「はッはッはッ」
 人を馬鹿にしたような高い笑声が、棺の外から響いて来た。八十助はハッと身を縮めたが、次の瞬間、ベットリと冷汗をかいた。どうやら棺の外からX光線をかけたものらしい。X光線をかけると、棺の中は見透しだった。彼が生きて藻掻いているところも、骸骨踊のように、棺外の連中の眼にうつったことであろう。それで可笑《おか》しそうに笑ったのに違いない。
「おうーい、甲野君。聞えるかネ」
 と鼠谷のしゃ[#「しゃ」に傍点]枯れ声がした。
 八十助は石亀のように黙っていた。しかし彼の伸縮している心臓だけは、どうも停めることが出来なかった。八十助は結局、嘲笑を甘んじて受けつづけねばならなかった。
「……むろん聞えているだろうネ。もう暫らくの辛抱だ。しっかりして居給え」
 なにを云っているんだい――彼はムカムカとした。
(どうなと勝手にしろ!)
 彼は一切の反抗と努力とを抛棄した。もうこうなっては、藻掻けば藻掻くほど損だと知った。そう諦めると、俄《にわか》に疲労が感じられた。ゴトゴトと棺桶はまた揺ぎ、そしてまた別な乗物にうつされた。こんどはブルブルブリブリと激しい音響をたてるものだった。彼はそれを子守唄の代りにして、グウグウ眠った。グーッと浮き上るかと思えば、ドーンと奈落《ならく》へ墜ちる。その激しい上下も、いまとなっては、彼を睡らせる揺籃《ようらん》として役立つばかりだった。
 十時間――ではあるまい、恐らく数十時間後であろう。八十助の棺桶は、遂《つい》に搬ばれるところまで搬ばれたようである。俄に周囲が騒々しくなった。汽笛が鳴る。音楽が聞える。花火が上る。一体之は何ごとが始まったのであろうか。
 嵐のような歓呼とでも云いたい
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