という気もなかった。そのまま、この知人と別れて、同じ人混みをズンズンと四谷見附《よつやみつけ》の方へ流れていったのだった。
(あいつは、誰だったかナ)
八十助には、いま挨拶を交《かわ》した奇妙な男の素性を思い出すことが、何だか大変楽しく思われて来た。それでソロソロこの楽しい一人ゲームを始めたのだった。
だが、思う相手の素性は、いつまで経っても、彼の脳裏に浮びあがりはしなかった。
「誰だったか。あいつの素性よ、出てこい、――」
八十助は、小学校の友人から出発して、中学時代、大学時代、恋愛時代、それから結婚時代、さらに進んで妻と死別した後の遊蕩《ゆうとう》時代、それから今の探偵小説家時代までの、ことごとくの時代の中に、彼の奇妙な男の姿を探し求めたけれど、どうもうまく思い出せなかった。ついそこまで出ているだが[#「出ているだが」はママ]、どうも出て来ないのであった。彼はすこしジリジリとして来た。
そのとき彼は、大きな飾窓《ウインド》の前を通りかかった。そしてそこに並べてある時事写真の一つに眼を止めた。「逝《ゆ》ける一宮大将《いちのみやたいしょう》」とあって、太い四角な黒枠に入っている厳《いか》めしい正装の将軍の写真だった。その黒枠を見たとき、彼は電光の如《ごと》く、さっきの奇妙な男の正体を掴んだのだった。
「うん、彼奴《あいつ》だッ。――」
そう叫んだ彼は、不思議にも、叫び終ると共に、なぜかサッと顔色を変えた。何故何故《なぜなぜ》?
鼠谷仙四郎《ねずみやせんしろう》
「そうだ、彼奴だ。彼奴に違いない!」
螳螂男《かまきりおとこ》への古い記憶が電光のようにサッと脳裏に映じた。黒枠写真を見たときに、どうして彼奴のことを思い出したのであろうか。それはいわゆる第六感というものであろうが、不思議なこととて気になった。しかし後日になってその不思議が解ける日がやってきたとき、八十助は呼吸《いき》の止まるような驚愕を経験しなければならなかったのである。
「そうだ、彼奴は姿こそ変り果てているが、鼠谷仙四郎に違いない!」
鼠谷仙四郎――という名前を口のなかで繰返していると、八十助は小学校へ上ったばかりのあの物珍らしさに満ちた時代を思い出す。木の香新しい、表面がツルツル光っている机の前に始めて座った時、その隣りに並んでいるオズオズした少年が鼠谷仙四郎君だった。そのこ
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