人丸木は、火星のボートに乗って、もう逃げてしまったんではないのですか。あれもきっと、火星のまわし者かなんかでしょうから……」
すると、大江山課長は、首をかしげて、
「さあ、そこが大事のところなんですが、銀座事件があってから、まだ幾日もたっていないので、それは何とも言えません。私どもの経験によると、とにかく、ここ四、五日は様子をみていなければ、安心できません。その間に、丸木が、ひょっくり姿をあらわすかもしれないのです」
大江山課長は、火星のボートがいなくなったから、丸木も一しょに逃げたと、そうきめることは、まだ早すぎると思っていた。
新田先生には、どっちがほんとうだか、よくわからなかった。とにかく課長の頼みもあることだし、彼も前から、旧師蟻田博士のことが気にかかっていたところなので、その足で、蟻田博士に会いにいくことにした。
新田先生は、その足で、蟻田博士が入れられている病院へいった。
大江山課長は、両国駅にはいるのを一時見合わせ、病院へ電話をかけて、博士を出すように命令をした。そうして新田先生に、一人の警官をつけて、案内させた。
とつぜん退院のゆるしが下って、蟻田博士は、喜ぶやら怒り出すやら。
「けしからん奴どもじゃ。わしを、まるで囚人のように、こんなところへおしこめておいて、今になって、もう出てもよろしいとは、なんという、勝手な奴どもじゃ。わしを、一体なんと思っているのか」
その時、新田先生が、博士の前にいって御機嫌を取らなければ、博士はなおも、檻の中から出たライオンのように、あばれまわったことであろう。
「あっ、新田か。貴様まで、わしを変だというのか。け、けしからん」
「いや、蟻田博士。そういうわけではありません。もうただ今から、お屋敷にお帰りになれるのです。私がお供をいたします」
「ふふん、その手にはのらんぞ。そんなことを言って、貴様はわしを、またどこかの牢へぶちこむつもりなんだろう。弟子のくせに、けしからん奴じゃ」
「いえいえ、そうではありません。全くもって、私はそんなけしからんことはいたしません。さあ、御機嫌をお直しになって、お屋敷へお帰りのほどを」
蟻田博士は白いあご鬚をふるわせつつ、暫く新田先生の顔をじっとみつめていたが、
「おお、新田。貴様はわしをだますのじゃないだろうな。だましてみろ。――あとで、うんと、思いしらせてやるから。――とにかく、だまされたと思って、出かけるか」
蟻田博士は、そこに立ちながら医者や看護婦の顔色を用心ぶかくじろりじろりとにらみつつ、一歩一歩玄関の方へあるいていった。
新田先生は、けわしい眼つきの蟻田博士を、なだめすかして、ともかく博士邸へつれもどった。
「けしからん。実にけしからん」
と、ぶつぶつ言いどおしだった博士も、久しぶりに、わが家の前に下りたつと、急に機嫌がなおったようであった。博士は、すたすたと鉄門をあけて、邸内へはいっていった。番をしていた警官の一人が、おどろいたような顔をして、裏手からとびだして来たが、蟻田博士は、その方へ、じろりとけわしい目を向けた。
「け、けしからん。わしの屋敷を、刑務所にするつもりだな。わしはゆるせん」
新田先生はまた困った顔をしたが、一しょについて来た警官が、番をした警官を呼んで、博士の相手にはならず、そのまま自動車に乗り、ぶうーつと警笛をあとに残して、帰ってしまった。
それでも博士は、まだ心をゆるめず、
「おい、新田」
「はい」
「お前、そのへんを、よく見てまわれ。もし人間がいたら、どんな奴でもかまわないから、箒でぶんなぐってやれ」
「はいはい。承知いたしました」
新田先生は、博士をこの上おこらせてはいけないと思い、博士の言われるままに、邸内をぐるっとまわってみることにした。
裏手にまわってみると、博士の研究室になっている異様な形の天文台がある。
屋根は丸くて、これが中で、モートル仕掛でうごくのである。そうして屋根は二つにわれる。その間から、博士のご自慢の反射望遠鏡が、ひろい天空をのぞくのである。
博士の研究室には、りっぱな機械がそろっているが、その天文台の外は、庭一面、草がぼうぼうと生えている。ほとんど足をふみこむすきもないほどである。垣などはこわれたままである。
蟻田博士の天文台のまわりを、新田先生は幾度か足を草にとられながら、廻ってみた。
もちろん、誰一人として、そこにひそんでいる者はなかったし、警官の姿も見えなかった。
新田先生は、天文台をひとまわりして、博士邸の表に出た。そうして、あらためて玄関をはいって、博士の姿を研究室に見出したのであった。
蟻田博士は、新田先生に言いつけた見張のことなどは、もうすっかり忘れてしまったかのように、室内の機械を調べるのに夢中であった。
壁の上に、ガラスにはいった自記機械があった。自記機械というのは、人が見ていなくても観測した結果が、長い巻紙の上に、インキでもって、曲線になって記録せられる機械である。例えば、室内の温度が一日のうちに、どう変ったかというようなことを知りたい時、人が寒暖計のそばにつききりで、一々水銀の高さを読んで記さなくとも、この自記機械にかけておくと、巻紙が廻るにつれ、ペンが長い曲線をかいて、室内温度がどう変ったか記してくれる。
蟻田博士は、この自記機械をあけ、中から巻紙をひっぱって、それを見るのに夢中になっている。
「博士。よく見廻りましたが、もうお屋敷のうちには、誰もいませんですから御安心なさいませ」
と、新田先生は、博士の後から、声をかけた。
ところが、蟻田博士は、それには、返事をしない。
そうして、なおも夢中になって、その自記機械から、巻紙|様《よう》のものを長くひっぱり出して見ている。その目は異様な光をおびていた。
「博士。それは、何を自記する機械ですか」
新田先生は、博士の後に近づいた。
博士は、新田先生に声をかけられ、びっくりしたようであった。
「誰かっ?」
と、けわしい目で振返って見て、そこに新田先生が立っているのを見ると、
「なんだ、お前か」
「先生。お屋敷の内には、ほかに、もう誰もいないようでございますよ」
「そうか。だが、油断は出来ないぞ。もし誰かの姿を見つけたら、すぐわしに知らせるのだぞ」
そう言いながらも、博士は長い巻紙を手に取って、自記曲線を見入っている。
「博士。それは何を測ったものなんですか」
新田先生は、再び同じことを蟻田博士に尋ねた。
「これか」
と、博士は、巻紙のような記録紙の上をぽんと手で叩いて、
「わしが留守にしている間に、大変な異常現象が起っていたんだ」
「えっ、大変な異常現象とは?」
「異常現象が起ったとは、つまり、この宇宙の中に、あたりまえでない出来事が起っていたんだ」
博士の目の中には、いらいらした気持が、はっきりと見られた。それを見て、新田先生も、なにかしらぞっとした。
「博士。宇宙の中に、あたりまえでない出来事が起っていた、とおっしゃるんですか。それは、一体どんなことなんですか」
博士は、なおも長い記録紙を、くりかえし広げて見ていたが、
「とにかく、これは地球始って以来の大事件が、近く起るぞ。というわけは、わしのかねて注目していたモロー大彗星《だいすいせい》の進路が、急に変ったのじゃ」
「はあ、モロー彗星の進路が、急に変ると、大事件が起るのですか」
11[#「11」は縦中横] モロー彗星《すいせい》
モロー彗星が、急に進路を変えたからといって、さわいでいる蟻田博士だった。それがなぜ大事件になるのか、新田先生には、わけがわからなかった。
「おい、新田。地球が遂に粉みじんになる日が来るぞ」
「えっ、なんですって」
新田先生は、びっくりして、博士の顔を見なおした。先生は、自分の耳を疑《うたぐ》ったのである。地球が粉みじんになる。……と聞えたように思ったので。
「なんだといって、それだけのことじゃ。地球が、粉みじんに、くだけてしまうのじゃ」
「先生、それはじょうだんですか。それとも、小説かなんかの話ですか」
新田先生には、博士の言葉がまだのみこめなかった。
そうでもあろう。地球が粉みじんになる日が来るなんて、そんなばかばかしいことが、あるであろうか。
さもなければ、蟻田博士は、やはり病院にはいっている方が、いい人なのではなかろうか。つまり博士は、変になっているのではなかろうか。
新田先生はどっちに考えていいのか、たいへん迷った。
蟻田博士は、記録紙を机の上にのせると、ていねいに巻いていった。そうしてそれを大事そうに側の金庫の中にしまった。その間、博士は一言も発しなかったが、それが終ると深いため息をついて、新田先生の方を見た。
「おい、新田。お前には、このことがのみこめないかもしれない。が、よくお聞き。さっきも言ったように、かねて注意を払っておいたモロー彗星が、わしの留守中、急に進路を変えたのだ。その結果モロー彗星の新しい進路は、これから地球が通っていくはずの軌道と交るのだ。しかもその交る時刻に、モロー彗星も、地球も、その軌道の交点に来るのだ。だから、両方は大衝突をする!」
「地球とモロー彗星とが、大衝突をするとおっしゃるのですか」
新田先生はびっくりして、思わず博士の腕をつかんだ。
博士は、悟りきった人のように平気な顔で、
「そうだ。やっと、わかったかね」
「つまり、地球の軌道と、モロー彗星の軌道とが交っていて、どっちかが、その交点を早くか遅くか通ってしまえばいいのだが、不幸にも、地球とモロー彗星とが、同時に、その交点を通る。それでその時大衝突が、起るというわけですか」
「そうだ、そうだ。全くその通りだ。地球の人類にとって、こんな大きな不幸はあるまいなあ」
「そこで、大衝突をやって、地球は粉みじんになってしまうのですか」
「そうだとも。モロー彗星の芯《しん》は、地球の大きさにくらべて八倍はある。これは、さしわたしの話だ。そうして、その心は、どんなもので出来ているか、まだよくはわからないが、とにかく非常な高熱で燃えている、重い火の塊《かたまり》だと思えばいい。そういうものが、地球の正面から、どんとぶつかれば、地球はどうなるであろうか。衝突後も元のままの地球であるとは、もちろん考えられない」
「地球は、幾つかに壊れるのでしょうね。日本と、アメリカとが、別れ別れになったりするのでしょうね。しかしわれわれ人類は、そうなっても、ちゃんと生きておられるでしょうか」
新田先生は、恐しい想像の中に、思わずおののいた。
「いずれ日本とアメリカとが、別れ別れになると言っても、それが二つの小さな地球の形になるとは思われない。今のところ、わしの考えでは、地球は粉みじんになって、そうして、いくつかの火の塊になってしまう」
「えっ、火の塊ですか。するとわれわれ人類は。……」
蟻田博士は、モロー彗星が地球にぶつかった時は、地球は幾つかの火の塊になってしまうであろうと、大胆な見通しをつけた。
「そうなれば、もちろん、地球上の生物は、一ぺんに焼けてしまって、ただもやもやした煙になってしまうだろうなあ」
蟻田博士は、平然と、まるでひとの事のように言う。
「博士、それでは、大衝突をすると、地球上の人間も、牛も、馬も、犬も、猫も、みんな死にたえてしまうと、おっしゃるのですか」
「そうだよ」
「やっぱりそうですか。地球上のありとあらゆる生物が、死滅するのですか。ああなんという恐しいことだ」
新田先生は、もう立っても坐ってもおられなくなって、椅子の上に、やっと自分の体をささえた。
「蟻田博士。ほんとうにそんな恐しい時が来ますか」
「もちろん来るさ」
「ああ、なんとかしてその大衝突を、防ぐことは出来ないものでしょうか。だって、余りにも悲惨です」
「相手は、地球だのモロー彗星だ。その大衝突を防ぐことは、とても出来ない相談だ。そんな大きな物体を、右とか左とかに動かす力を、人間が持っていないことは、お前もよく知っているだろう」
「それにしても、それでは、出来事が余りに悲惨
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