すぐ手配をしてはどうですか」
「いや、そんなことはしない方がいい。おい佐々。君、案内してくれ。僕がいって、一つよく、調べてみよう」
「えっ、課長と私と二人きりで……」
「そうだ」
と、課長はうなずき、
「それから博士の失踪のことは、当分世間へは秘密にしておくのだ」
4 わからない話
蟻田老博士の行方不明になった事件は、新聞にも出なかったし、ラジオのニュースでも放送されなかった。
そのわけは、主として大江山捜査課長のふかい考えで、世間には知らせない方がいいということになったのである。報道禁止命令が、新聞社へも放送局へも発せられた。そうして、課長の部下は、老博士の行方をつきとめるために、四方八方に散って、大活動を始めた。
だが、老博士の行方は、いつまでも、なかなかわからなかった。
そのうちに、二十日《はつか》ほどの日数が過ぎてしまった。ちょうどそのころ、読者もまだよくおぼえておられることと思うが、あの天狗岩事件が起ったのである。
天狗岩事件といえば、友永千二少年が、夜釣にいく途中、はからずも天狗岩の上に、怪しい物体が飛んで来たのを見つけ、それから彼は勇敢にも、天狗岩へ上ったところ、怪しい者に組みつかれ、もみあううちに、両方もろとも、天狗岩をすべって、どぼんと湖の中に落ちてしまった事件のことだった。
だから、その当時、蟻田老博士は行方不明のままだし、そこへ持って来て千葉県下の出来事ながら、奇怪な天狗岩事件が持上ったわけである。この二つの怪事件の間には、何かつながりがあるのか、どうであろうか。
いや、それよりも、友永千二少年は、その後どうなったのであろうか。湖の中に落ちて、そのまま溺れ死んでしまったのであろうか。
千二少年は、生きていた。
彼は今、ふと我に返った。とたんに感じたことは、なんだか、大変長い夢を見つづけていたということであった。
「ああっ――」
千二は、うす眼をひらいた。
「ああっ――」
千二少年が、正気をとりもどしたときに、まずはじめて感じたものは、においだった。それはじつに異様なにおいだった。
彼は、くすんくすんと鼻をならして、そのにおいが、なんのにおいであるかを知ろうとした。だが、彼のおぼえているものに、そんなにおいのするものはなかった。しいて、それに似たにおいをさがしてみると、牛小屋の傍《かたわ》らを通ったときの、あのたまらないにおい――そのにおいを、もすこし上等にして、その中へ海草のにおいをまぜると、いま千二がかいでいる異様なにおいに近いものになる。けれども、牛小屋と海草のにおいを合わせただけではない。そのうえに、もう一つ、なんだかにおったことのない、妙にぴりぴりしたにおいが交っていたのである。なんとなくうまそうでいて、そしてむかむかするにおいだ。
におったことのない妙なにおい!
それも道理であった。これこそ、火星の生物の汗のにおいであったのだ。火星の生物の汗のにおいが、その部屋一ぱいに、みちていたのである。
はじめ千二は、ちょっといいにおいだと思ったけれど、間もなく胸がむかむかしてきた。それほどいやらしいにおいであった。
そのとき、ぎーぃと音がして、誰かが近づいた気配《けはい》である。
千二は、ぱっと眼をひらいた。それまで千二は、正気にかえったとはいうものの、ぐったりして眼をつぶって、ただ鼻ににおいだけを感じていたのだった。
「おい君、いま元気にしてやるぜ」
うす桃色の湯気の中から、とつぜん、この言葉が聞えたのである。
「えっ」
千二少年は、その方を見た。
湯気は、もうもうと渦を巻いていた。その向こうに、何者か立っている。ぼんやりと、頭のかっこうのようなまるいものが見えた。
「だ、誰?」
千二は、まるい頭のようなものに、声をかけた。
「誰でもない。おれだよ」
湯気の中から、ぬっと姿をあらわした者があった。
頭には、つばの広い、黒い中折帽子をかぶり、そうして同じ黒い色の長い外套《がいとう》を、引きずるように着た大男であった。
黒い色のレンズのはまった大きな眼鏡をかけているので、人相のところは、はっきりしない。
その眼鏡の上には、太い眉毛がのぞいている。
鼻は、まるで作り物のように、すべっこくて、きちんと三角形をなして、とがっている
唇は、肉がうすくて、たいへん横に長い。
あごのあたりは、よく見えない。外套の襟《えり》を立てて、その中に頬から下を、ふかく埋めているのである。
胴中《どうなか》は、さっきも言ったように、たいへんふといのであるが、両方の腕は、外套の上からではあるが、たいへん細くて長い。だから胴中と腕とが、妙につりあわない。全く、千二少年の知らないおじさんだった。
千二は、この黒いものずくめの、かっこうの悪いおじさんを一目みた時に、すでにもう、たいへんいやな気持になった。遠慮なく言うと、蜘蛛《くも》の化物《ばけもの》みたいな人間なんだから……
「誰です。おじさんは!」
「おじさん? おじさんて、何のことかね」
「おじさんというのは、あんたのことをさして言ったんですよ」
おじさんという言葉を知らないなんて、変な大人《おとな》である。千二は、いよいようす気味が悪くなって、立上ろうとした。
が、立上ることは出来なかった。よく見ると、彼の下半身は、何かで縛られているらしく、立とうとしても、体がいうことを聞かないのであった。
「ああ、こらこら。じっと寝ているがいい。今おれが、お前を元気にしてやるよ」
と、蜘蛛の化物みたいな、その黒いものずくめの大男が言った。
「もう、たくさんです。それよりも、あんたは誰なのか、それを教えて下さい。そうして僕が、どうしてこんなところに来ているのだか、それを教えて下さい」
「はははは。そんなに気になるかね。ほんとうのことを言って聞かせてもいいが、お前がおどろくだろうから、まあ、やめにしよう」
「そんなことを言わないで、教えて下さいな」
「そうか。きっとおどろかない約束をするなら、教えてやってもいい」
その蜘蛛の化物みたいな大男は、ものを言うたびに、唇を境にして、鼻の下からあごまでの間が、障子紙のように、ぶるぶるふるえるのだった。どうも只者ではない。
「僕、おどろいたりしませんよ」
千二少年は、心の中に決心した。どんなことがあっても、おどろくまいと。
「そうか。きっとおどろかないな」
と、その大男は念をおして、
「では教えてやろう。いいかね。お前が今こうしているところは、火星のボートの中だ。そうしてこの中には、火星の生物が、十四、五体も乗組んでいるのだ」
「えっ、火星のボートの中ですって」
「なんだ。やっぱりおどろくじゃないか」
火星のボートの中! これがおどろかないでおられようか。
火星のボートの中に、千二はいたのである。何時《いつ》の間に、火星のボートの中にはいったのか、さっぱりわからない。
「すると、僕の体は、もう地球から離れてしまったのですね」
「ううっ、まあそのへんのことは、何とでも考えたがよかろう」
蜘蛛の化物みたいな大男は、ちょっとあわてたらしかったが、ともかく返事はした。
そうか、火星のボートの中か。道理で変なにおいがすると思った。こんな変なにおいは、地球の上ではないにおいだ。
だが、ボートにしては、天井があるのが、不思議である。火星では、天井のあるボートを使うのだろうか。
「おい。お前を今元気にしてやるから、そのうえで、一つ頼みたいことがあるんだ」
その男は、突然用事のことを話しかけた。
「頼みたいことですって」
千二は、目をぱちぱちして、この不思議な男の顔を見上げた。
「一体、おじさんは、何という人なの。ああそうか。おじさんも、やはり火星の生物なんだね」
そうだ、それに違いない。人間と同じ恰好をしていたので、今まで、人間のように思って話をしてきた。しかし火星のボートの中にいて、いばっているからには、やはり火星の生物に違いない。しかし、それにしては、日本語がこんなにうまいのは、どうしたということであろう。
「お、おれのことかね」
と、その大男は、またどぎまぎしているようだったが、やがて蜘蛛のように肩を張ると、
「お、おれは人間さ。お前と同じ人間なんだよ。ほら、よくごらん。人間と同じ顔をしているだろう。話だって、よくわかるだろう。火星の生物じゃないさ。だから、おれをこわがることはない。仲好くしようや」
と、そのきみのわるい大男は言うのであった。とんでもないことだと、千二は心の中で思ったが、口に出しては、この大男をおこらせるだろうと思って、やめた。
「おじさんは、ほんとうに人間ですか」
「そ、それにちがいない。なぜ、そんなくだらんことを聞くのか」
「でも、変ですね。火星のボートの中に、地球の人間が一しょにいるなんて」
千二は、生まれつき胆はふとい方だった。始めは、びっくりして、すこし、あわてていたが、だんだん気が落ちついて来た。
「べつに、変なことはない。まあ、そんなことはどうでもいいじゃないか。おれのたのみを聞いてくれれば、たくさんお礼をするよ」
「さっきから、たのみがあると言っているのは、どんなことですか」
こんなきみのわるい男にたのまれる用事なら、どうせ、ろくなことではあるまい。
「なあに、ちょっとした買物があるんだ。くすりを買いたいんだ。それについていってもらいたい」
「えっ、くすりの買物? どこへ買いにいくのですか」
「どこでも近いところがいい。たくさんくすりを売っているところがいいのだが、東京までいった方がいいだろうね」
「東京? へえ、東京ですか。ははあ、すると、僕たちは、また地球にまいもどるのですか」
「ふふん、それはまあ、なんとでも考えるさ。とにかく東京までいこうじゃないか。今すぐお前を元気にしてやるから、待っていろ。元気にしてやらないと、途中で歩けなくなっては困るからね」
大男は、向こうへいこうとする。それを見て千二は、うしろから呼びかけた。
「おじさん、ちょっと待ってください。おじさんの名前は、なんというのですか」
「おれの名前か。それは――」
と、かの大男は、背中を見せたまま、だまって立っていた。すぐには、名前が出て来ないらしい。
「おじさんは名前がないのですか」
「ばかを言え。おれの名前は……」
と、彼はうなっていたが、
「そうだ、おれの名前は、丸木《まるき》というんだ。丸木だ。よくおぼえておけ」
そう言うなり、丸木と名乗る大男は、うす桃色の湯気《ゆげ》の彼方に、姿を消してしまった。
あとには千二一人がのこった。あいかわらず、寝かされたままである。からだは、やはり思うように、うごかない。一体どんなものをつかって、自分のからだを縛ってあるのか、それをたしかめるために、首をもち上げようとしたが、首がじゅうぶんに上らない。のどのところも、何ものかで、床に縛りつけられているらしい。千二は、いつの間にか、彼が捕虜《ほりょ》になっていることに気がついた。
捕虜といっても、あたり前の捕虜ではない。火星の生物が乗組んでいる火星のボートの中に、捕虜となってしまったのである。これから先どうされるのであろうか。このまま火星へつれていかれるのであろうか。それとも火星の生物の餌食になってしまうのであろうか。考えれば考えるほど、不安はだんだん大きくなって来る。こうなると、うす気味わるい男ではあるが、あの黒いものずくめの、丸木と名乗るおじさんを、たよるしかない。
その時、とつぜん、湯気の向こうに、火花のようなものが、ぱっときらめいたかと思う間もなく、千二は全身に、数千本の針をふきつけられたように感じた。
「あっ、いたい」
だが、それは針ではなかった。全身がぴりぴり痛むのだった。電気にさわった時の感じと同じだ。いつまでもぴりぴりと痛む。
ぴりぴりと、はげしい痛みが、千二のからだを、だんだんつよくしめつけていった。
「あっ、苦しい」
おしまいに、千二はもう息が出来ないくらい、苦しくなった。
「おうい、丸木さあん」
千二は、遂《つい》
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