つけたと思うと、もう月末になっていて、すぐ次の月が来る。そうなると、また新しい鍵の数字が入ってくるから、さあ一日以後は、向うの暗号が全く解けない。改めて鍵の数字の勉強をやりなおすというわけです。私としても、解読係員の苦労は常に心臓の上の重荷です」
 と、木村事務官は深い溜息をついた。
 帆村は、ただ黙々として肯く。木村氏の暗号に対する話の内容は、彼の持っている知識と完全に一致していたのである。
「そこで問題の鍵の数字ですが、もし月が変る前に、うまく発見ができるものなら、われわれにとってこれくらい有難いことはないわけです」
「なるほど」
「ねえ、そうでしょう。この暗号の鍵数字は、いつどんな風にして送ってくるのであろうかということにつきまして、もう長い間調べていましたが、極く最近になって、それがやっと分りかけたのです」
「ほほう、それは愉快ですね」
 と帆村もようやく膝をのりだした。
「全く涙の滾《こぼ》れるほど嬉しいことです。私たちは、その暗号の鍵《キイ》が、やはり無電にのってくるのかと思ったのですが、そうではない。秘密結社の本部では飽くまでも用意周到を極めています」
「ははあ」
「鍵の数字は、どうしてこっちの支社へ知らせてくるんだと思われますか」
「さあ――」
「実をいうと私たちにも、まだよく分っていない」
「それではどうも――」
「いや、しかし貴重な手懸りだけはやっと掴んだのです。見て下さい。これです」
 そういって木村氏が帆村の眼の前に持ち出したのは、黒い折鞄《おりかばん》であった。
 折鞄のなかから現われたのは、一体なんであったろうか。それは四六倍判ぐらいの板であって、その上に大きな金色のペン先がとりつけてある。察するところペン先の広告看板なのであった。英国の或る有名なペン先製造会社の名が入っていた。そしてこの看板をぶらさげられるように、金具がうってあった。
「これは面白いものですね。しかしどうしてこれが暗号の鍵の数字に関係あるのか分りませんが」
 と、帆村は首をふった。
「それは今説明します。立派な説明がつくのです。これをごらんなさい」
 といって、木村氏は鞄の中から懐中電灯のような細長いものを出して、ペン先の看板の裏へかざした。
「さあ、いま私がこの紫外線灯のスイッチを押して、この裏板へ紫外線をあててみます。すると一見この何にも書いてないような板の上に実に興味あるものが現われますから」
 木村氏が手にしていた細長い懐中電灯様のものは、紫外線灯だったのだ。帆村が感心しているとき、スイッチが入ったものと見えて、裏板がぱっと青く光った。見れば、それは文字の形になっているではないか――。
[#ここから2字下げ]
“※[#丸1、1−13−1]x=□□□□□□=74□×?”
“※[#丸2、1−13−2]ハ東京市銀座四丁目帝都百貨店洋酒部ノ「スコッチ・ウィスキー」ノ広告裏面。赤キ上衣ヲ着タル人物ノ鼻ノ頭に星印アリ”
[#ここで字下げ終わり]
 と、愕《おどろ》くべきことが書いてあった。


   車馬賃一万円也


 帆村荘六は、木村事務官と別れて、いよいよ活動に入った。
 ペン先の看板の裏に書かれた x=□□□□□□の□□□□□□こそ、探す暗号の鍵の数字であった。しかしいかなる数字であるか、はっきり記さず 74□×? と妙な書き方をして逃げてある。そしてこれを※[#丸1、1−13−1]として、あとは※[#丸2、1−13−2]を探せというような書きっぷりであった。実に不思議なペン先の看板だ。
 どうして木村事務官がこれを手に入れたかについて帆村は質問の矢を放ったが、事務官はその説明を拒絶した。そしてこんなことを云った。
「それを説明すると、私どもの役所が使っている重要な情報網の秘密を洩らすことになりますから勘弁してください。しかしこれは十分|信憑《しんぴょう》すべきものであることを断言します。この□□□□□□は、来月の暗号の鍵数字であること疑いないのですが、肝腎の数字が入っていません。これは次の※[#丸2、1−13−2]という場所、つまり銀座の帝都百貨店洋酒部にあるスコッチ・ウィスキーの広告をさがして、その裏を見て考えるよりほかないのですが、この仕事を貴下にお願いしたいのです。私どもがやってもやれなくないかもしれませんが、たびたび申すとおりに、それではすぐ彼等の方に分ってしまいます。そこは貴下を煩《わずら》わした方が、巧みにカムフラージュにもなるし、またお手際も私どもより遥かに美事《みごと》であろうと思うのです。どうか一つそのような事情をば御考慮の上、直ちに活動をはじめていただきたい。しかも絶対秘密です。それからもう一つ、お気の毒ですが、今日は二十六日で、あと五日で来月となります。ですからこの調査は、即時とりかかっていただきたい。そしてあらゆる手段を使って、一時間でも早く完了していただきたい。遅れてしまうと、政府にとってたいへんな損害ですから――それから云うまでもありませんが、十分身辺を警戒して下さい」
 そういって木村事務官は、車馬賃として金一万円也の紙幣束を帆村に手渡したのであった。必要あらば、金はいくらでも出すからいってくれ、秘密連絡所として市内某所を記した名刺を手渡した。そこは普通の民家を装ってあるが、長距離電話もあれば、電信略号もあり、振替番号まで詳細に記載してあった。
 帆村荘六は、この木村事務官との会見によって、珍らしいほどの大昂奮《だいこうふん》を覚えた。なかなか手剛い相手である。こっちへ送られて来た来月の暗号の鍵を、いかなる危険をおかしてもこの五日のうちに探しあてるのだ。非常にむずかしい仕事であることはよく分っている。従来の暗号でこのような数学みたいなものを出したものがあるのを聞いたことがない。骨が折れることは目に見えている。
「よし。どんなことをしても、この六桁の暗号の鍵を解かずには置くものか」
 帆村は料亭を出ると、すぐさま公衆電話函に駈けこんで、大辻助手を電話口に呼びだした。こういう重大事項になると、大辻にも云い明かしかねたが、程よく大意を伝え、ここ五日ほど不在にする事務所の留守を、かねて云いつけて置いたとおりによくやるよう頼んだ。
「先生、僕を連れていって下さらないので心配です。しかしお伴がかなわないということでは仕方がありませんが、どうかくれぐれも身辺を御用心なすって下さい」
 と、大辻助手はしきりに帆村の身の上を案じていた。
 それからいよいよ帆村の活動が始まったのである。全くの一本立だった。自分の頭脳と腕力とが、只一つの資本だった。
[#ここから2字下げ]
※[#丸1、1−13−1]x=□□□□□□=74□×?
[#ここで字下げ終わり]
 さあこれをどう解いてゆくか、この奇妙な暗号の謎を。
 とにかく次に目指すは※[#丸2、1−13−2]だ。銀座の帝都百貨店の洋酒部とある。
 かれはすぐその足で、地下一階にある洋酒部の売場に近づいた。
 ぶらりぶらりと客を装いながら洋酒売場を物色するうちに、彼は遂に、問題のスコッチ・ウィスキーの絵看板を洋酒の壜《びん》の並ぶ棚に見つけた。なるほど赤い上衣をつけた西暦一千七百年時代の英人が描いてあった。近づいてみると、鼻の頭に、例の特別記号の一つ星が書きこんであった。
「なにか御用でございますか」
 と、生意気そうな店員が、帆村の方に言葉をかけた。こんなところにお前のような貧乏人の用はないぞといわんばかりの態度であった。
「ああその何だ。コクテールの材料をあつめたいのだ。あそこの棚をのぞいてみたいから、ちょっと梯子《はしご》を貸してくれたまえ」
 帆村は梯子をもってこさせると、つかつかとその上にあがっていった。そして高価な洋酒の壜を、あれやこれやと矢鱈《やたら》に選《え》りつづけるのだった。
 店員の態度が、可笑《おか》しいほどがらりと変った。そこにない洋酒をいうと、倉庫にあるから只今持ってまいりますと、奥の方へすっとんでいった。それが帆村の覘《ねら》いどころで、彼は梯子にのぼったまま、身体の蔭になっている側のスコッチ・ウィスキーの絵広告をそっと外し、その裏面に木村事務官から渡された紫外線灯をさしつけた。
「呀《あ》っ、なるほど!」
 帆村はかねて期したるところとはいえ、果然発展してゆく秘密数字の謎が秘密ペイントで書かれてあるのを発見して、愕きをかくし切れなかった。そこに書いてある文字は上のようなものであった。
[#ここから罫囲み]
[第一図]
※[#丸2、1−13−2]

       8
   _______
74□)□□□□□□
    □□□2
    ―――――

※[#丸3、1−13−3]ハ東京新宿追分「ハマダ」撞球場内ノ世界撞球選手「ジョナソン氏」ノポスターノ裏。
カフス釦ニ星印アリ
[#ここで罫囲み終わり]


   未完成の割り算


 円タクの中で、帆村はノートの中をしきりと覗《のぞ》きながら、頭をひねるのであった。
 帝都百貨店で拾い集めた※[#丸2、1−13−2]の記載によれば、問題の六桁数字は、果然不思議な割り算の形をとっている。その謎の数字を 74□で割って、その商として始めの一桁に8をたたせ、これを 74□に掛けて□□□2 なる数字を得ているのである。
「これは実に愕くべき暗号の隠し方である」
 と帆村は感嘆久しゅうしている。
 一ヶ所では分らず、第二、第三と場所を追ってゆかなければ、暗号数字は解けないようになっているのだ。しかも求める数字は、被除数の形となっていて、智恵のない人間には、到底そのまま分りそうもないことになっている。これではいちいち□の中に隠されている数字を導きださねば求める謎の数字は結局出てこない仕掛けになっている。
「これは六ヶ敷いことになった」
 と思ったが、早く考え出さなければ間にあわない。ピンチは迫っているのだ。
「よおし、考えるだけは考えておこう」
 帆村は、うつしとってきたノートを熱心に見つめた。しばらく見ているうちに、彼は一つのヒントをつかんだ。
「なるほど、やっぱり考えてみるものだなあ。すこしずつ解けるじゃないか」
 かれはどういう風に考えたか。
 74□に8をかけて、その答が□□□2 となるのである。こういう風に8をかけて一の位に2が出てくる場合は、そう沢山あるわけではない。――彼はノートへ、上のような符号をつけた。
[#ここから罫囲み]
[第二図]
※[#丸2、1−13−2]

       8←ハ
   _______
74A)BCDEFG
↑↑  HIJ2
イロ     ↑
       ニ

[#ここで罫囲み終わり]
 ABCなどの英字は、まだいくつとも分っていない数字である。イロハなどは、もう7とか4とか確定している数字である。
 だからいまはAの問題なのである。さていろいろやってみると、Aは二つの答をとることが分った。すなわち A=4 と A=9 の二つの場合である。
 A=4 なら、744×8 となって、答は 5952 となる。また A=9 なら 749×8 となって答えは 5992 となる。どっちも一の位は2である。これが第一の発見である。
 それに元気づいて、なおも考えをつづけてみると、果然不可解の数字のうち二つまでが確定することが分ったので、帆村は躍りだしたいほどの悦びを感じた。
 それはいずれの桝形《ますがた》の中の数字であろうか。
 結論を先にいうと、H=5、I=9 と決定するのである。なぜならば右にのべた A=4 の場合は 5952 であり、A=9 の場合は 5992 であり、この二つを比べてみると、千の位と百の位はどっちも同じ 59 である。だから当然 H=5、I=9 でなければならぬ。
「なるほど、これは面白い答だ」
 と、帆村は口のうちに叫んだとき、彼ののった円タクは、新宿|追分《おいわけ》の舗道に向ってスピードをゆるめ、運転手はバック・ミラーの中からふりかえって、
「旦那、この辺でいいですか」
 とたずねた。
 帆村は大切なノートをポケットに収《しま》っ
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