しいやつ……」
 ネオン横丁の出口にあたる四ツ角の、薄暗い光の下に、何者とも知れぬ人影がパッと映ったが、忽ち身を飜して電車道の横丁へ走りこんだ。その人影は帆村荘六の醒めきらぬ眼にハッキリした印象をのこさなかったが、和服を纏《まと》った長身の男らしく思われた。
「事件だ!」
 彼はそう叫ぶと、今度こそは本当に正気になって、あの人影がうつったネオン横丁の出口をめがけてバタバタと駈けだした。その四ツ角から左に曲って、人影を追ったがどうしたものか、どこにもその姿は見当らなかった。電車道を越えて、小路の多い大久保の方へ逃げこんだものと見える。そうだとすると、追跡は全く不可能になる。
 帆村は追跡をあきらめて、元の横丁へ、とってかえした。いまの人影は、どこから出てきたのだろう。それから例の怪音は、どの家から発したのだろう。どこかそのあたりに、今にも屍《しかばね》の匂いがプーンとして来そうに思われた。
 彼は怪音の出所を、ネオン横丁と断定した。それでその横丁にとびこむと、向うの端まで家並を、ザッと一と通り睨みながら、通りぬけたが、入口の扉や、窓などが開いている家は一軒もなかった。
(こいつは間違ったかな)
 そう思いながら、こんどは両側の窓下と戸口を一々丁寧に見てゆくことにした。彼の身躾《みだしな》みの一つであるポケット・ランプをパッと點けると、まずネオン横丁の入口に最も近いカフェ・オソメの前に跼《しゃが》んで戸口の前や、ステンド・グラスの入った窓枠《まどわく》などを照し、なにか異常はないかとさがしたが、そこには血潮も垂れていなければ、泥靴の生々しい痕もない。扉は押してもビクとも動かなかった。ではこのカフェ・オソメも大丈夫であろう。こんな風に、隣りから隣りのカフェへと、表口を一々しらべていった。だが、何処にも異状が見当らなかったのだった。
「人殺しィ。うわぁ、誰かきて……」
 イキナリ帆村の頭の上で、婦人の金切声があった。それは丁度、四軒目のカフェ・アルゴンの前だった。悲鳴は、その三階と覚しいあたりから発したようだった。
「うん、果《はた》して事件だ。さっきのは、するとピストルの音だった」
 帆村荘六の酔いは完全に醒めてしまった。彼はドシンドシンと、カフェ・アルゴンの扉に身をぶっつけた。扉は意外に苦もなくパタリと開いた。近所では、やっと気がついたものとみえて、窓をあける音や、人声や、下駄のかち合う音が、そこら近所に騒々しく湧きおこった。
 帆村が一歩足を踏みこんだところで、靴先にカタリと当たる何物かを蹴とばした。懐中電灯で探してみると、それはダンディ好みの點火器《ライター》だった。彼は手帛《ハンカチ》をだして、それを拾いあげると、ポケットに収いこんだ。これも事件の謎をとく何かの材料かもしれない。
 店をとおりすぎ、洋酒瓶の並ぶうしろに、三階へつづく螺旋階段《らせんかいだん》があった。二階へも別な階段があったが、二階と三階とを通ずる階段はなかった。帆村は螺旋階段に手をかけると、スルスル三階へ登っていった。
「やあ、――」
 三階をのぼりきった室には、けばけばしい長襦袢を着た三十ぢかい肥肉《ふとりじし》の女が、桃色の夢がまだ漂っているようなフカフカした寝床の上に倒れていた。その横に、も一つ寝床があるが、そこに寝ている人の姿はなかった。
「君、しっかりなさい、どうしたんです」
 帆村は女の艶《なまめ》かしい肩を叩いた。
 すると女は、ますます顔を夜具の中に埋めるようにして全身を戦《おのの》かせながら、左手をツとあげて、無言のまま表口寄りの隣室を指すのだった。さてはこの隣に、屍体が転っているのであるか。
「おお、これは――」
 帆村は、隣室の襖に手をかけたが、これは頑として動かなかった。よくみると、襖は襖だが、特製のもので、こっちからみると紙が貼ってあるが、裏の方は檜材かなにかの堅い板戸になっている。その板戸に内部から錠前がかかっているのだった。なんという厳重なしまりをしてある室なんだろう。
「君、鍵はありませんか」
 女は布団に顔を伏せたまま、かぶりを振るばかりだった。帆村は、ジリジリしてくる心をやっと押えつけながら、室のうちを、あちこちと見廻したが、襖がすこし開きかけている押入に気がつくと、急に眼を輝かしたのだった。
 それは江戸川乱歩が「屋根裏の散歩者」を書いて以来、開けた自由通路だった。押入の襖を開くと、女給の化粧道具や僅の梱などが抛《ほう》りこまれてある二重棚の上にとびあがった帆村荘六は、天井板を一枚外して天井裏にもぐりこんだ。それから、厳重なしまり[#「しまり」に傍点]のある隣室と思われる方向へ、腹這いになってすすんでいったが、電線のようなものに、片手を挟まれた拍子に懐中電灯をパタリと落してしまった。
「ちえッ!」
 光は消えて、帆村の
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