早く三つの道を透《す》かしてみたが、猫の子一匹、眼に入らなかった。
気の迷いだったかしら、と私はアパートの裏口へ引返した。ハンドルに手帛《ハンカチ》を被せてグッとひねると、ガチャリと外《はず》れて扉は内部へ開いた。さてはと思って、充分警戒をしながら、すこしずつ滑りこんだ。ところが入ってみると、上の方で大きなものの暴れるガタンガタンとひどい音だ。呻《うな》るような吠えるような声がする――。そこへ突然私の名が呼ばれた。疳高《かんだか》いが、紛《まぎ》れもなく帆村の声だった。
私は階段を駈けあがった。それは三階の廊下だった。薄暗い廊下の真中に、帆村は一人の男を組み敷いたところだった。
その頃、やっと部屋部屋の扉が開いて、中から人影が注意深く、こっちを覗《のぞ》きだした。
「一体どうしたんです」
そういって近づいたのは、このアパートの番人と名乗る五十がらみの肥《こ》えた男だった。寝衣《ねまき》の上に太い帯をしめ、向う鉢巻に、長い棒を持っていた。
「これは事件の部屋から逃げ出した男です」と帆村が落付いた口調に還《かえ》って云った。
「事件というと、――事件はどの部屋です」
「あすこですよ。ホラ扉《ドア》の開けっぱなしになっている……」
「犯人は此奴《こいつ》ですか」
「さア、まだ何とも云えないが、あの部屋から飛び出してきて、いきなり私に切ってかかったのでネ」
と帆村は一振の薄刃《うすば》の短刀をポケットから出してみせた。
怪漢は縛られたまま廊下に俯伏《うつぶ》せになって転がっていたが、動こうともしない。その横をすりぬけて、私達は気懸《きがか》りの事件の部屋へ行ってみた。
「驚いちゃ、いけませんよ」帆村は一同に念を押しながら入口のスイッチをひねった。室内は急に明るくなった。一間《ひとま》通り越して奥まったところに八畳ほどの洋間があった。白いシーツの懸っている寝台があったが、こいつが少しねじれていた。が、ベッドの上は空っぽで、求める事件の主は、いま入った戸口に近い左側の隅っこに、大の字に伸びていた。若い長身の男だが、四角い頤《あご》が見えるばかりで、上の顔面は見えない。なんだか黒い布を被っているように見えたが、見るとそれが赤い血潮《ちしお》だった。残酷《ざんこく》に頭部をやられているのだ。右肩を自分の手で抑《おさ》えているが、肩もやられているらしかった。見ていると、フワーッと脳貧血が起りそうになった。それほどむごたらしい傷口だった。
「おお、金《きん》さん。可哀想《かわいそう》に……」と番人は声を慄《ふる》わせた。「助かりますか」
「金さんというのかネ」と帆村は云った。「金さん、まだ脈が続いている。無論意識は無いがネ。至急医者だ、警察も急ぐが、それより前に医者だ」
「医者は何処が近いですか、爺さん」私は番人の腕をとった。
「医者はあります。ここを向うへ三町ほど行ったところに丘田さんというのがある」
「じゃ爺さん、ちょっと一走り頼む」
「わしは、どうも……」
番人は尻込《しりご》みをした。その結果、どうしても私が行かねばならなくなった。医師のところへゆくとすれば、怪我人《けがにん》の様子をよく見て行って話をせねばならないと思ったので、私は無理に気を励《はげ》まして、血みどろの被害者の顔を改めて見直した。
「おお、これは……」
と私は駭《おどろ》きに逢って、とうとう声に出した。
「どうした、オイ。知り合いか」と帆村も駭《おどろ》いて私の肩を叩いた。
「これあネ」私は彼の耳に口を寄せた。「これあ先刻《さっき》云ったゴールデン・バットの君江とややっこしい仲で評判の男さ」
2
私は医者を迎えるために、外へ飛びだした。丘田医師というのは、ゴールデン・バットの近くに診療所を持っていた。それだから私は、さっき帆村と一緒に通った道をもう一度逆に帰ってゆかねばならなかった。
その道々、私の全神経は、今見た怪我人のことで占領されていた。
金《きん》と呼ばれる彼《か》の男の顔を覚えたのは、忘れもしない私が最初バットの門をくぐったときのことだった。沢山客もあるなかで、なぜあの男のことをハッキリ印象づけられたか。そうそう思い出したが、まだもう一人、あのときに覚えた男がいた。その人のことを先に云うが、それは海員らしく、女たちにしている話が如何にも面白かったので記憶に残っている。あまり大きな人ではなかったが、陽《ひ》にやけた男らしい男で、その上、どの海員たちもがそうであるように、非常に性的魅力といったようなものが溢《あふ》れていて、女の子にはチヤホヤされそうに見えた。彼のしていた話というのは、むろん航海中の出来ごとについてだったが、中で一番私の注意を引いたものは、密輸入に関するものだった。船員の中には、陸上の悪漢団《あっかんだん》と
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