ないぞ」と私は負けるのが厭《いや》であるから叫んだ。「こういう場合だ、気が変になった女が、金に重傷を負わした。途端に癒《なお》ったとすると……」
「もう止《よ》そう。はッはッはッ」と、帆村は呆《あき》れ顔《がお》に笑い出した。
「帆村君、ちょっと来て下さらんか」
室の外から、大江山捜査課長の呼ぶ声がした。どうやら隣りの調べも片《かた》がついたものらしかった。
4
金《きん》青年殺害事件は案外|呆気《あっけ》なく処理されてしまった。官辺《かんぺん》では、帆村が捕縛《ほばく》した例の男を犯人として判定してしまった。
ここに意外だったことは、あの犯人という男が、海原力三《うなばらりきぞう》その人だったことだ。私もあの後、係官の前へ彼が引張りだされたとき初めてそれと気が付いて駭《おどろ》いてしまったわけだった。
海原力三は最初のうちは猛烈に頑張《がんば》って、犯人でないと云い張った。しかし後に至って遂に係官の指摘したとおり、一切の犯行を認めたということであった。
犯行の動機は、カフェ・ゴールデン・バットで金のために女を奪われたことを極度に憤慨《ふんがい》したためだった。彼の抱《いだ》いていった薄刃《うすば》の短刀に血を衂《ちぬ》らず、あの重い砲丸を投げつけて目的を達したことは、後《のち》に捕縛されたとしても、短刀をまだ使っていないという点で、犯行を否定するつもりだったという。それを最初から指摘したところの検事は、大変鼻を高くしていた。
かくて事件は表面的には解決したが、私としてはお察しのとおり、いろいろの疑問が不可解のまま解決されていないので、大いに不満だった。
そして思いは帆村の場合も同じであった。その帆村は、海原力三の自白後、随分しばらくやって来なかったが、そうそう、あれは一ヶ月ほども経《た》った後のことだったろうか、莫迦《ばか》にいい機嫌で私の許《もと》へ訪ねてきた。
「オイ何処へ行ってたのか」
と私は帆村の鬚《ひげ》を剃《そ》ったあとの青々とした顔を見上げて云った。
「うん、東京にいるのが嫌《いや》になって、旅に出ていた。実は神戸《こうべ》の辺をブラブラしていたというわけさ。あっちの方は六甲《ろっこう》といい、有馬《ありま》といい、舞子《まいこ》明石《あかし》といい、全くいいところだネ」
「ほう、そうか。じゃ誘ってくれりゃいいものをサ」
「ところがブラブラしていたとはいいながら、波止場仲仕《はとばなかし》をやっていたんだぜ」
「波止場仲仕を、か?」
私は直ぐ帆村の意図《いと》が呑みこめた。彼は例の事件について、外国汽船の出入はげしい港で何事かを調べていたというわけなのだろう。
「ときに君は、近頃ゴールデン・バットへ行っているかい」
「行ってはいるがネ」
「行ってはいるがネというところでは、あまり成功していないようだネ。あすこも金だの海原氏が一時に行かなくなって、寂しくなったことだろう」
「その代り大した後任者が詰めかけているよ」
「そりゃ誰のことだい」
「君には解っているのだろう。あの丘田医師のことさ」
「そうか。丘田氏が行っているか。相手はどの女だい」
「それが例のチェリーなんだ。チェリーはこの頃、断然《だんぜん》ナンバー・ワンだよ。君江も居るには居るが昔日《せきじつ》の俤《おもかげ》無《な》しさ。しかし温和《おとな》しくなった。温和しいといえば、あの事件からこっち、不思議に誰も彼もが温和しくなったぞ。あれから思うと金という男は、悪魔のようなところのある素晴らしい天才だったんだナ」
「煙草の方は相変らず皆でやっているかい」
「煙草というと……」と私はあまり唐突《とうとつ》なので直ぐには気がつかなかった。「ああ煙草のことかい。それならカフェ・ゴールデン・バットのことだ。看板どおりのものを忠実に愛用しているさ。うまい宣伝手段もあったもんだネ。そういえば近来、女ども、バットをてんでにケースに入れていてネ、それを揃いも揃ってパイプに挿《はさ》んでプカプカふかすのだ。他にはちょっと見られない風景だネ」
「ふーん、なるほど」そこで帆村は言葉を切って、彼の好きなホープを矢鱈《やたら》にふかし始めた。
「じゃ一つ――」とやがて彼は立ち上って云った。「今晩は久しぶりにバットへ一緒に連れていって貰うとして、その前に君にちょっと附き合ってもらいたいところがあるんだが」
そこで私は帆村について家を出掛けたのだった。
「最初はここだよ」
と彼は云って、バットの近所にある野間薬局の店先《みせさき》にずかずか入っていった。
「ちょっと劇薬売買簿《げきやくばいばいぼ》を見せて貰いたいのですがネ。ここに本庁からの命令書がありますが……」
そういって帆村は店先に腰を下した。顔の青白い主人が奥から出てきて、こっちを向いて
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