――
「え?」
「イヤ其《そ》の君江というのくらい、性能|優《すぐ》れた女性はいないよ。その熱情といい、その魅力といい、更にその能力に於ては、世界一かも知れんぞ。生きているモナリザというのは、正にあの君江のことだ」
 と私は、暗がりをもっけの幸《さいわ》いにして、自分でも歯の浮くような饒舌《じょうぜつ》をふるった。
 あとは二人とも、鉛《なまり》のように黙って、あの裏街の軒下《のきした》を歩いていった。秋はこの場末にも既に深かった。夜の霧は、頸筋《くびすじ》のあたりに忍びよって、ひいやりとした唇を置いていった。
(遠い路だ――)仰《あお》ぐと、夜空を四角に切り抜いたようなツルマキ・アパートが、あたりの低い廂《ひさし》をもった長家の上に超然と聳《そび》えていた。
 と、そのときだった。
「ギャーッ」
 たしかギャーッと耳の底に響いたのだが、頭の上に、ひどい悲鳴を聞きつけた。何というか極度の恐怖に襲われたものに違いない叫び声だった。男か女か、それさえ判断しかねるほど、人間ばなれのした声だった。
「ほッ、この家だッ」
 と帆村は大地に両足を踏んばり、洋杖《ステッキ》をあげてアパートの三四階あたりを指した。ビールの満《まん》をひいて顔をテラテラ光らせていたモダンボーイの帆村とは異《ことな》り、もうすっかりシェファードのように敏感《びんかん》な帆村探偵になりきっていた。
「どこから行く、道は?」私も咄嗟《とっさ》にもう突っこんでゆく決心をした。
「裏口へ廻って呉れッ。明《あ》いてたら、しっかりせにゃ駄目だぞ」
「君は?」
「表から飛びこむッ。急いで――」
 帆村が腰を一とひねりして、尻の隠袋《かくし》から拳銃を取出しながら、早や身体を玄関の扉《ドア》にぶっつけてゆくのを見た。こっちも負けずに、狭い家と家との間に飛び込んだ。飛びこんだはいいが、溝板《どぶいた》がガタガタと鳴るのに面喰《めんく》らった。
 露地内《ろじない》の一つ角を曲ると、アパートの裏口に出た。頑丈な鉄棒つきの硝子扉《ガラスドア》が嵌《はま》っていた。そのハンドルに手をかけようとしたとき、なんだか前方の溝板の上をサッと飛び越えていった者があるように感じた。誰か壁の蔭に隠れていたような気がした。私は裏口の方は放って置いて、その影を追い駈けた。
 露地をつきぬけると、また細い路地がずッと長く三方に続いていた。私は素
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