余程忍び込みには経験があるらしく、庭園に面した廊下の端の掃《は》き出《だ》しの戸を簡単にこじあけ、仲間をさし招いてはいった。
 二人は、各部屋の様子をうかがって廻った。そして小さな笈を使って隙間から部屋の中へ何か霧のようなものを吹き入れた。
「こうして置けば、四時間は熟睡していて下さるよ」
 男賊が笑いながら仲間に云った。
 最後に応接間に入った。
「やあ、さすがはルウベンス。いいもんだなあ」
 男賊は、広い肩を左右へ張って、惚れ惚れと画面に眺め入った。しばらくすると、彼の左の腕に、柔く力が加わった。女賊が、それを抱えたのだ。ぴったりと女賊は身体をすり寄せる。
 どうしたわけか男賊は「これッ」と叫んで仲間から身を引いた。彼は左の腕を、痛そうに撫《な》でた。
「つまらんことはよしにして、さあ仕事にかかって貰おう。君が仕事をする一時間は絶対に大丈夫だから、安心してやるんだ。もし外部から邪魔が来れば、そのときは五分間でおれが片附けてしまう。さあ、仕事にかかったり」
 仕事とは、何か。
 男賊の方は退いて見張についた。女賊の方が前に出た。ルウベンスの「宝角を持つ三人のニンフ」の画面をじっと見ていたが、やがて軽くうなずくと、小さい机を傍へ引寄せ、その上に黒い包を載せて、解いた。
 中からは絵具箱や、紙に包んであるガラス壜《びん》にはいった液体などが現われた。女賊はこれを小机の上に並べて点検を終ると、小缶の蓋をあけて左手に持ち、右手に刷毛《はけ》を持って画に近づいた。何をするのかと思っていると、刷毛を小缶の中に入れてかきまわし、それをいきなり画面にぺたぺたと塗りつけた。
 すると画面は、刷毛の当ったところだけが白くなった。
 何を塗りつぶすつもりか。
 それにしても賊の怪行為だ。
 女賊は、画面に三ヶ所の白い塗り潰《つぶ》しの箇所をこしらえた。右端のニンフの顔がなくなった。真中のニンフの左手も消された。左端のニンフの顔も白塗りにより、右手も白く消された。
 うしろを歩いている男賊は、時々立ち停って、女賊のすることを凝視《ぎょうし》する。
 女賊の怪行為は続いた。
 それが終ると、こんどは絵具箱からパレットを取出し、それから絵筆を右手にとった。それから彼女は、非常な手練と速さを持って、さっき白塗りにした上に、別の画を描いていった。もっともその画は、原画の消してない部分とよく連続した。
 すなわち、右端のニンフが原画では七三に向いているのが、彼女の手によって真横向きに描き改められた。真中のニンフの左手は、原画では垂れ下っているが、これを宝角を抱いている様に描き改めた。それから左端のニンフは正面向きに直され、手の形も変えられた。それが済むと女賊は大急ぎで道具類を片附け始めた。
 すると男賊が寄って来た。
「ふむ。実に大したものだ。藤代《ふじしろ》女史の手腕恐るべし。絵具の材料も吟味はしてあるんだが、なにしろルウベンスそっくりの筆致を出したところは恐れ入った。これなら、誰が見たって、まさかこんな加筆をやったと思うまい。ふーン」
 男賊は、それまでと違った一変した態度をとって、仲間を讃めた。
「あなたが、あたしにいい言葉をかけて下さるのは、こんな仕事をした直後だけに限るのよ。憎らしい人」
「さあ、急ごう、仕事が終れば、早々退場だ」
 男賊は女賊を促して、さっさと部屋から出ていった。庭園に面した戸は、二人の賊を送り出すと、元のようにぴったりと閉じられた。
 加筆されて怪画となり果てた名画「宝角を持つ三人のニンフ」は、そのよき静かな応接間に睡りをとったのであった。
 この怪画は、それから二日後に、美術商岩田天門堂が来て、買取っていった。


   地下の画室


 某山脈の某地点に、烏啼天駆の持っている地下邸があった。
 その一室が、かなり広くて、今は名画の間となっている。
 その日、彼烏啼は、新しい画を持ちこんだ。それはルウベンスの「宝角を持つ三人のニンフ」に似た怪画であった。
 彼の傍には、四十歳に近い色白の垢《あか》ぬけのした婦人がついていて、手伝っていた。
 怪画は、中央のテーブルの上に、上向きに置かれた。面長白面の美男子烏啼は、待ちきれないといった顔で、婦人を促すのであった。
「そうお急ぎになっても、同じことですわよ」
「いや、早く幕を取除いて、その下にある本体を見せてもらわないことには、安心ならない。藤代女史、急いで……」
 藤代女史といわれた大年増は、烏啼をいくぶん焦らせて悦《よろこ》んでいる気配であった。それでも遂に彼女は仕事にかかった。白いバットの中に、青味がかった薬液が注ぎ入れられた。その中へ白いガーゼを浸して、たっぷりと液を吸わせた。女はそれを取上げると、画面へぶっつけて、二三度こすった。
 すると横向きになっている右端のニンフの顔が、七三向きに直った。ガーゼには、絵具が附着していた。
 女は、ガーゼを白いバットの中で洗って、同じようなことを、画面の他の部分に施した。真中のニンフの手の位置が変化し、それから正面向きの左端のニンフが右向きに変った。
「美事美事。藤代さん、大したものだ。とうとう名画の御出現だ。さあそれはあそこの壁にかけよう」
 烏啼は上々の機嫌になって、再現した名画を壁間に掲げ、惚れ惚れと眺めた。
 彼が藤代女史にやらせている油絵変貌術は、かつてルーブル美術館からダビンチ筆の「モナリザ」を盗み出し、多数の模写を作って大儲けした賊ジョージ・デーンの手法と技術とを踏襲しているのだった。つまり或る薬液があって、それを画面にかけると、後から塗った画は、綺麗に拭い去ることができるのであった。
 烏啼と藤代女史とが、この静かな画房の中で、蒐集の名画八枚をうっとりと眺めているとき、音もなく扉があいて、そこからひどい猫背の黒眼鏡をかけ、長いオーバーを着込んだ男がはいって来て、軽く咳払《せきばら》いをした。
 烏啼は「あッ」と叫んで、振り向きざま手馴れたピストルを取直し、あわや引金を引こうとして、危いところで辛うじてそれを思い停《とどま》った。
「やあ、珍客入来だ。これはようこそ、袋猫々先生」
「こんなことだと思ったよ。悪趣味だね」
「なんの、合法的だよ。不正な取引はしていない」
 烏啼は、毅然《きぜん》としていた。藤代女史は、さすがに照れて、隅っこへ小さくなる。
「だが、こんなことは、もうよしたがいいね。種はたった一つだ。この種で、何べんも繰返しているなんて、烏啼天駆らしくもない」
「ふん、忠告か。そういえば、同じ手法のくりかえしで気がさすが、世の中には鈍物《どんぶつ》が多いから、まだこの手法を知られていないつもりだが」
「あんたも焼きがまわっているよ」
 と袋探偵は、つかつかと「宝角を持つ三人のニンフ」の前へ行った。
「美術商岩田天門堂に化けて二度も同じ手を使うとは、なんて拙《まず》いことだ。それにさ、この画だって、ニセ物だということを君は知らんのか」
「ニセ物? この画が……。うそも休み休み云って貰おう。これは本物だ」
 烏啼は激昂して叫んだ。
「ところが、お気の毒さまにも、これはニセ物なんだ。君を見倣って、わが輩のところにもこういう薬があるよ。ちょっと失敬」
 そういって袋探偵は、烏啼と藤代女史とを尻目にかけ、オーバーのポケットから出した罎の栓をぬいて、中なる茶色の液体を、ざあッと画面へふりかけた。
「あッ、何をする」
 烏啼は、袋猫々にとびついて、その罎を叩き落としたが、もう間に合わなかった。
「騒がないで、よく画面を見るんだね」
 袋探偵は、落着き払って、そういった。
 すると怪しむべし、画面のニンフや宝角が急に薄れて行き、一分半ばかり経つと、ルウベンスの画はすっかり消え去って、その替りに、その下から拙劣な林間を画いた風景画に変ってしまった。
「おや。これはどうだ」
 と烏啼の愕くのを、にやりと笑った袋探偵は、
「これでお分りでござろうが、手前の方にも模写の腕達者《うでだっしゃ》が控えて居りましてね、風景画の上に、ルウベンスの名画を一夜で描きあげる画家が居ますのさ。また、君の持っている薬液を真似て、それと性質の違った別の絵具を溶かして消し去る重宝《ちょうほう》な薬液の用意もござりまする。だから烏啼大人よ。もうこんな古い手はお使いにならんことだね。三文の価値のないインチキ名画を、たとい何千円にしろ、高い金を払い、いろいろ肉体的精神的の苦労を積んで、ここへ集めて来るには及ばないやね」
 この勝負、ついに烏啼の負けと決ったようである。
 もちろん、後日ではあるが、セザンヌ筆の「カルタを取る人」は、無事に伯爵の手に戻ったことは云うまでもない。伯爵は、死んでもこの画は売らないといっている。



底本:「海野十三全集 第12巻 超人間X号」三一書房
   1990(平成2)年8月15日第1版第1刷発行
初出:「小説読物街」
   1949(昭和24)年1月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2001年12月29日公開
2007年11月31日修正
青空文庫作成ファイル:
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