は変った絵をお架《か》けになりましてございまするな」
さすがに美術商よと讃《ほ》むべきであるが、岩田天門堂は、話の途中で壁間の画を一目見ると愕《おどろ》きの声をあげた。
「君にも分るかね」
伯爵は、情けない声で訊《き》いた。
「分りますどころか、実に珍なる画でございまするな。御前はこの画をどこで手においれになりました。また、ここにお架けになって居りますのは、如何なる洒落《しゃれ》でござりまするか」
「無礼なことをいうね、君は」と、伯爵の額には青筋が太く出た。
「いや、これは御無礼を。平頭陳謝仕りまする。しかし正直なところ、鈍なる天門堂には皆目わけが分りませんので。御前より御説明を承りますれば、まことに幸《さいわ》い……」
そこで伯爵は顔色を和《やわら》げて「カルタを取る人」の盗難とその入れ替えにこの怪画が残してあったことを物語った。
聞いている岩田天門堂は、さかんに愕きの声を洩らし、御前をも憚《はばか》らず頤髯をひっぱり、果ては舌打ちまでした。
「とんだひどい奴があった者でございますね。盗んで行くなら盗んで行くで、そっくり持って行けばいいものを――いや、これは失言でございました、どうぞ御勘弁を――つまらんものを残して行くなんて、まことに人を莫迦《ばか》にした泥坊の仕打でございまするな。手前如きでさえ、この画を見るとむかむかとしてまいります。ああ。気持が悪い。なんという侮蔑《ぶべつ》、なんという愚弄《ぐろう》、いや、御前もさぞ御気持の悪いことでございしょう。お察し申上げまする」
と天門堂はしげしげと伯爵の顔を見て云ったものである。伯爵の顔は悄然《しょうぜん》たる顔から、憤然《ふんぜん》たる顔に移行した。
「全く不愉快だ。おい天門堂。この絵を片付けてくれ。そうだ、庭へ持出して、焼いてしまってくれ。なに構わんから」
「焼き捨てろと仰有《おっしゃ》いますか。それはまことに――いや、御立腹《ごりっぷく》はご尤もであります。御下命《ごかめい》によりまして早速お目通りからこの珍画を撤去いたしまするが、しかし御前、お焼き捨てになりまするなら、どうか天門堂へ適当なる価格をもって御払い下げ願わしゅう存じます、はい。勉強いたして頂戴いたしまする」
岩田は、懐中から大きな財布を出して、その上をぽんと叩いた。
「なんだ。お前も変っているな。とんでもない模写のニセ名画を買い取って、どうするつもりか」
「いえ、もちろん手前の手に渡れば金儲《かねもうけ》けの糧《かて》にいたします。出鱈目《でたらめ》な説明を加えましてな、セザンヌの弟子が『カルタを取る人』を模写中発狂して、こんな画を描いてしまったが、とにかくこれはセザンヌの弟子なるフランス人の筆であるから、一枚五千円だと申しまして売りつけます」
伯爵の心が動いた。
「じゃあ、いくらで買っていくね」
「左様《さよう》。大奮発をいたしまして一千五百円では如何さまで」
「おい、ひどく儲けるつもりだね。さっき五千円で売りつけるといったのに、ここから買っていくときはたった千五百円か」
「ははは、これは御前、恐れ入りました。売りつけますにはいろいろと手のかかるものでございまして、それ位の利益を見ておきませんことには……ええい、ようございます。特に大々奮発いたしまして、ぎりぎりのところ四千円で頂きまする。千円は儲けさせて頂きたいもので、はい」
とどのつまり、岩田天門堂はこの怪画を四千円で伯爵から買い取り、折柄ちょうど店の者が自動車を持って岩田を迎えに来たので、それに乗って帰った。もちろん怪画はそのとき持っていった。
烏啼天駆《うていてんく》のこと
その翌日のことである。
袋探偵は、いよいよ猫背を丸くして、黒眼鏡の背景の大きな顔を、よく熟れた蜜柑《みかん》のように赭くして、伯爵の許へやって来た。
「怪賊の見当がつきましてございます」
と、袋探偵は伯爵の顔を見るより早く云った。
これには伯爵も愕いた。へぼ探偵にちがいないと、昨日は内心がっかりしていたのに、予期に反してこの快報をもたらしたのであるから、愕き且《か》つ怪《あやし》んだ。
「本当かね」
「いや、それについてご説明をいたさなくては信用なさらないでしょう。実は、例の怪賊の手口からして糸口を辿《たど》っていったのですが、実に実に賊は容易ならん奴ですぞ」
「賊は誰でも差支えないが、あの名画は、何時僕のところへ戻るだろうか」
「名画の取戻し方については、まださっぱり自信がないのですがが賊の見当だけは果然つきましたゆえ……」
「待ちたまえ。今も云うとおり、賊は誰であっても僕は構わない。問題は、あの名画が僕のところへ戻るか戻らないか、それを早く報告して貰いたい」
「それは逐次《ちくじ》順を追って捜査いたし、御報告をいたします。しかし今日御報告に参りましたのは、私には斯《か》くのとおりの捜査手順がついて居りますことをお知らせいたし、すこしでも御安心願おうと存じまして……」
「聞きましょう、君の話を。犯人の素性その他について、聴取しましょう」
伯爵はややがっかりしたが、やがて思い直して探偵にそういった。
「これは私でなくては図星《ずぼし》を指す者は居ないのでございますが、この犯人は、かの憎むべき奇賊烏啼天駆の仕業《しわざ》でございます」
「なに、ウテイ・テンクとは何者です。それが色白の女賊の名ですか」
「いえ、違います。二人組の男の方が、烏啼天駆なんで。こ奴《いつ》は、すこぶる変った賊でございまして、変った物ばかり盗んで行くのです。建物から一夜のうちに時計台を盗んでいったり、科学博物館から剥製《はくせい》の河馬《かば》の首を盗んでいったり、また大いに変ったところでは、恋敵《こいがたき》の男から彼の心臓を盗んでいったりいたしました」
「残酷なことをする。憎むべき殺人鬼だな」
「いや、殺人はいたしませぬ」
「しかし恋敵の男から心臓を抜けば彼は死んでしまう」
「ところが奇賊烏啼の堅持する憲法としまして“およそ盗む者は、被害者に代償を支払わざるべからず。掏摸《すり》といえども、財布を掏《す》ったらそのポケットにチョコレートでも入れて来るべし”てなことを主張して居りまする奇賊――いや憎むべき大泥坊でございます。そんなわけで、こちらの御盗難の場合においても、代償として別の画をはめていったものでありまして、稀《まれ》に見る義理堅い――いや、憎みても余りある怪々賊であります」
「なるほど。これは奇々怪々だ」
伯爵は奇賊烏啼天駆の話が初耳だったので愕いた。然《しか》し袋探偵の言葉の中に、ちょいちょい耳ざわりなところがあるのが気になった。或る箇所では、探偵は烏啼を尊敬しているようにも聞える。
実は、これは深い由緒《ゆいしょ》に基く。賊の烏啼と探偵の袋とは、永年追駆けごっこをしているのだ。お互いに背負い投げをいくども喰い、そしてにがい水をお互いにふんだんに呑ませ合った仲であった。年月が経るに従って、こんどこそ相手をとっちめてやるぞという決心がむらむらと湧いて来ると共に、相手に対する奇妙な懐しさも湧いて来るという始末であった。これも人情の機微であろう。
「で、その烏啼とやらが、僕の名画を盗んだことを白状したのかね」
「いえいえ、まだ、そこまでは行って居りませぬ。犯罪の性質と手口から判断して、この事件は彼烏啼の仕業にちがいないと推理した結果を御報告に参ったわけです」
「そんなら一刻も早く烏啼天駆とやらを縛りあげて、僕のところへ連れて来給え」
「ああ、そのことですが、実は私は烏啼を常に監視しつづけているのですが、どうしたわけか、この半年ほど、烏啼は本部に居ないのです。つまり行方をくらましているのです。彼のことですから、死んだのではないと思います。彼の部下もちゃんと元気に秩序立って活動していますから、頭目《とうもく》烏啼は死んだのではなく、どこかに隠れているにちがいありません。ですから私は、これから烏啼の在所を、極力捜査にかかる決心です」
「それはまた、たより無い話だね。さっき聞いた犯人が烏啼であるという結論までたより無くなって来た。君、大丈夫かね」
伯爵は情けない顔をした。
「大丈夫ですとも。怪賊烏啼を捕る力量のある者は天下に私ひとりです。どんなことがあっても彼の尻尾をつかんで取押えてごらんに入れます」
「待ち給え。毎度いうように、犯人を捕えることよりも、名画を僕の手に戻してくれることに力を入れてくれ給え」
「名画といえば、入れ替わりの名画はどうなさいました。壁からお外しになって、おしまいになったんですか」
「いや。あのインチキ名画は、出入りの美術商に四千円で払い下げてやったよ」
「それはどうも。お気のはやいことで」
「一日に何十回と見るたびに胸糞《むなくそ》が悪くなるから、無い方がせいせいするよ」
「しかし、どうも、ちと気がお早すぎましたね。これはどうも」
と、袋猫々探偵は、腕を組み、首をかしげて考えこんでしまった。
怪賊の侵入
こういう名画すり替え事件が、その週のうちに、前後三回起った。
しかし当局へ届けられたのは、一回だけであった。他の一回は、被害者の方で気がついていなかったし、もう一回の方は、事情があって当局へ届けなかった。その事情というのはその名画が、公表出来ないような筋道を通ってその人の手に入ったもので、届ければ藪蛇《やぶへび》になるのを嫌ったのである。
探偵袋猫々は、この三つの事件を知っていた。それは彼の熱心と、彼の張っている監視網の確実性によるものであろう。
彼は、極秘裡《ごくひり》にこの三事件を並べて検討した。その結果、三事件に共通しているものを二つ発見した。
その一つは、賊はいつも二人組で、うち一人は女賊であるということだ。
もう一つは、その事件のあとにはいつも怪画の買い手が来て、価値のない画を割高に買っていくことだった。その買い手は伯爵の場合の外は岩田天門堂ではなかったが、買って行くときの口上などは、三事件ともほとんど共通した文句を使っているところからして、或いは一つの系統に属している商人たちではないかと探偵に不審の心を抱かせ、それから袋探偵の活動が更に一歩深入りした。
そのころ北岡三五郎という新興成金があった。彼はこの連中の中では珍らしく審美派であって、儲けた金の一部をもって、元宮様の別邸をそっくり買い取り、それから日本画や洋画等の美術品の蒐集に凝りだした。
しかし短い時期に、そう大した美術品が集まるわけもなかったが、だがその中にピカ一ともいうべき名画が一枚あった。それはルウベンスの描いた「宝角を持つ三人のニンフ」であった。
これは縦長の画で、題名のとおり三人のニンフが画面に居て、花や果実のあふれ出てくる宝角という円錐形の筒を抱いているのであった。
この名画を、北岡は応接間の壁にかけていた。彼はこの名画を来客の一人一人に見せ、そして聞き噛って来た解説を自慢たらたらと聞かせるのだった。
袋探偵は、この名画に眼をつけていた。やがて必ずや名画怪盗の餌食になるものと思った。かの怪盗は、なかなか鑑賞眼というか鑑定眼を持っていて、真に傑作であり、値の張るものを持って行く。その傍に、別の大作の画があっても、それが幾段も劣るものだと見分けて、手をつけないのだった。だから怪盗はこのルウベンスの名作に必ずや手を出すにちがいないと思った。
だが彼は、北岡氏に対し、そのことを予《あらかじ》め警告することはしなかった。彼の不親切であろうか。
そのためかどうか分らないが、遂に北岡邸へ例の怪盗が忍びこんだ。大雨風の去った次の静かな深夜のことだった。
黒衣に身体を包んだ二人の賊の、一方は背の高く肩幅の広い巨漢であって、男にちがいなかった。もう一人の賊は、五尺二寸ばかりで、ずっと低く、ただ腰のまわりがかなり張り出していた。どうもこの方は女賊であるらしい。頭には、ナイト・キャップのようなものを被り、黒色の大きな目かくしで、顔の上部を蔽《おお》っている。
侵入の仕事は、男の方が先に立って、どしどし片づけていった。彼は
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