、僕は愕き且《か》つ感心したことであった。
『放送された遺言《ゆいごん》』は、僕の書いた科学小説の第二作であって、昭和二年「無線電話」という雑誌に自ら主唱《しゅしょう》し、友人|槙尾赤霧《まきおせきむ》と早苗千秋《さなえちあき》とに協力を求めて、三人して「科学大衆文芸」というものを興《おこ》したが、そのときに書いたものである。そのときは『遺言状放送』という題名であった。僕は翌昭和三年に、処女作の探偵小説『電気風呂の怪死事件』を書いたが、その作以前に、実は科学小説三篇を書き下ろしていたのである。本篇はその一つである。
 右に続いて第三作『三角形の秘密』を書いた。これも勿論、同誌の科学大衆文芸欄に出たものである。三作中、これが一番マシであるように思う。この頃僕は、当時売出した江戸川乱歩氏の探偵小説を非常に愛読していた。作風のいくぶん似かよえるは、全く此の小説の影響である。
 さて右の科学大衆文芸はどういう反響があったかというと、「そんな下らない小説にページを削《さ》くのだったら、もう雑誌の購読は止めちまうぞ」とか、「あんな小説欄は廃止して、その代りに受信機の作り方の記事を増《ま》して呉れ」などという投書ばかりであって、僕はまだ大いに頑張《がんば》り、科学文芸をものにしたかったのであるが、他の二人の同人《どうにん》たちがいずれも云いあわせたように後の小説を書いてくれずになって、已《や》むなく涙を嚥《の》んで三ヶ月で科学大衆文芸運動の旗を捲《ま》くことにした。実に残念であった。前にもいったとおり昭和二年のことだった。
『壊《こわ》れたバリコン』は昭和三年五月「無線と実験」に載ったものであるが、これこそは実に僕の科学小説の処女作である。実をいえば、これを書いたのは昭和二年のはじめであって、書いた動機は、その頃「科学画報」に科学小説の懸賞募集があったので、それに応じたというわけであった。そのときは『或る怪電波の秘密』といったような題であったが、これが見事に一等二等を踏みはずし、選外佳作となった。しかし何分にも選外にでも入るとは想像していなかったので、その発表の出たときは誌上にわが名を発見して非常に嬉しかったものである。小説を作る度胸《どきょう》は、このときに出来たといっても過言《かごん》ではない。なおそのうえ僕を楽しませたものは、そこに書かれてあった数行の作品批評であった。詳《
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