編集者が、どれだけ正しく科学小説を育て得られるか、その点について予《かね》て大きな疑問を持っている。僕の結論をはっきり先に述べると、今日の編集者は、科学が普及しない時代に教育をうけた人達であり、また科学畑から出た人がほとんど見当らないところからいって、本質的に科学の味がわからないのである。だから科学物を取扱うためには、非常な勉強が入用だ。この勉強が嫌いな編集者だと、ついに科学小説的色盲となる虞《おそ》れがあるようにおもう。
それに反し、科学小説をたいへん悦《よろこ》んでくれ、そして科学小説の味を理解してくれるのは青少年層だ。この人達は、科学が普及した今日の時代において教育され、そして科学隆興の中に刺戟をうけ、科学というものに大きな興味をもっている。だから科学小説がその嗜好《しこう》に投ずるのである。
いかにこの青少年層が科学小説に対し熱意をもっていてくれるか、それは恐らく今日の多くの編集者も知らないし、多くの作家も知らないところであろうが、実に熾烈《しれつ》を極《きわ》めている。この青少年たちが次の時代において大人になり、そして大人の小説を読むようになったとき、果して今日のような非科学的な環境で非科学的な会話のやりとりをする小説を悦んで読むであろうか。そう考えると、今日のように保守的といわんよりは退嬰的《たいえいてき》な、そして勉強の足りない編集方針を延長していったのでは、必ず早晩大きな破綻《はたん》を生ずるにちがいない。これを避けるには今から大事なところへ石をうっておく必要があると思う。
いつの世においてもそうであるが、小説の鑑識《かんしき》にかけては、作家や編集者や批評家よりも、読者の方が一層スマートである。この事実を忘れていてはもの嗤《わら》いになる。
だいぶん話が硬くなった。このへんで、硬い話の筆を置くこととし、次にこの書に収めた作品についてすこしばかり作者の感想を綴《つづ》らせてもらう。
巻頭の『十八時の音楽浴』は「モダン日本」の増刊に発表したものである。人間の意志というものが、将来こうした科学手段によって監理《かんり》される日が来るであろうことを示唆《しさ》したもの。今日世界各国が極秘のうちに研究していると伝えられる怪力線とか殺人光線とかいったものは、人を殺し、自動車や飛行機のエンジンを停めるにとどまらず、さらにこうした方向へも進出する日が来る
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