頸飾り
モウパンサン
辻潤訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)希望《のぞみ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)折々|運命《なにか》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)エラエラ[#「エラエラ」に傍点]
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 その女というのは男好きのしそうなちょっと見奇麗な娘であった。このような娘は折々|運命《なにか》の間違いであまりかんばしくない家庭に生まれてくるものである。無論、持参金というようなものもなく、希望《のぞみ》など兎《う》の毛でついた程もなかった。まして金のある上流の紳士から眼をつけられて愛せられ、求婚されるというようなことは夢にもありはしない。とかくして、彼女はある官庁の小役人の処に嫁《ゆ》くこととなった。
 華美《はで》に衣飾ることなど出来ようはずがない。で彼女は仕方なく質素な服装《みなり》をしていた。けれど心中は常時《いつ》も不愉快で、自分がまさに行くべき位置《ところ》に行くことも出来ず、みすみす栄ない日々の生活を送らなければならないのかと真から身の不幸せを歎いていた。成程女は氏なくして玉の輿という、生来《うまれつき》の美しさ、優《しと》やかさ、艶《すこ》やかさ、それらがやがて地位なり、財産というものなのだ。それを他にしてなにがなる? それさえあれば下町の娘も高貴の令嬢もあまり変わりはない――道理《もっとも》なことである。
 彼女は自分が充分に栄誉栄華をする資格に生まれてきたと念うと、熟々《つくづく》今の生涯が嫌になる、彼女は一日もそれを思い煩わぬ日とてはなかった。住居《すまい》の見すぼらしさ、壁は剥げている、椅子は壊れかかっている、窓掛けは汚れくさっている、このようなことは彼女と同じ境遇にいる女のあまり気にも留めなかったことであろう。けれど彼女はもうちょっとしたことにも気をエラエラ[#「エラエラ」に傍点]さして、我れと我が身を苦しめていた。しかし、時にはプレトン辺りの農夫の妻が骨身を惜まず真っ黒になって働いている光景《ありさま》などを思い浮かべて、自分が果敢《はか》ない空想の徒なことを恥ずかしくも浅ましいことに思わないでもなかった。けれどそれもしばし、彼女はやがてまた元の夢に返った。静かな玄関の座敷、周囲には東洋で製作《で》きた炎えたつような美しい帷張《とばり》がかかっている。高い青銅《ブロンズ》で出来た燭台が置かれてある、室内は暖炉の温か味で程よくなっている、傍の肱掛け椅子には逞ましい馬丁風の男が二人睡っている。と思うと古代の絹かなにかで飾りたてられた美術室、如何程価のするか解らないような種々の珍奇の骨董品やら、書画の類が巧を尽して列べられてある、さらに居間に入れば価高い香料がプン[#「プン」に傍点]と鼻を突いて心を酔わせる。このような処で夕暮れに親しい朋友《ほうゆう》や交際場裡に誰知らぬもののない若い紳士などを集めて、くさぐさの物語に時の移りゆくを忘れたら、如何ように楽しいことであろうかと彼女はたえずこのような幻の影を追うていた。
 買ってから三日も経ったかと思われる新しいテーブル掛けのかかった食卓に夫と相対《さしむかい》で座わる。夫はスープの皿をひきよせて、さも嬉しそうに「如何だ、この皿は今まで買った中では如何しても一番だ。ねえ、お前はどう思うね?」とたずねる。彼女はピカピカ[#「ピカピカ」に傍点]する銀製の食器《うつわ》、古代の人物や美しい花鳥の図の縫い取りがしてある掛け毛氈のことを夢みていた。そして、ほんのり赤味を帯びた鱒の照焼きや鶉の料理に舌鼓をうたせながら謎のような眼つきをして、自分に媚る若い男の囁きに耳を傾けていたらばなどと、例の空想をほしいままにしながら夫の言葉など上の空できき流していた。
 彼女は衣服《きもの》も満足なのは持っていなかった。その他宝石|頸《えり》飾りの類、およそ彼女がこの世の中に欲しいと思うような身の周囲《まわり》の化装品は一つとして彼女のままにはならなかった。彼女は実際それらのものを衣飾に為してこの世に生まれてきたのだと考えていたのだ。如何かして世の中の人を羨ましてやりたい。男を迷わしてやりたい。そうして、自分は何時も男につき纏われてみたいと、このようなことのみ思い続けていた。
 彼女には幼い頃から親しくしていた学校朋輩がある。しかし、その友人というのはかなりな財産家の娘なので、初めの内こそ二、三度訪ねてみたこともあったが、それは余計に自分を苦しませる種なので、それなり交わりを絶ってしまった。今ではその友の顔をみるさえはなはだしい苦痛なのである。
 ある晩のことであった。夫はいつになくイソイソ[#「イソイソ」に傍点]として帰ってきた。閾を跨ぐや否や彼女に一個の封筒を指し示しながら、
「そら、お前にいいものをあげよう」
彼女は荒々しく封筒を剥して、中から印刷された一枚の紙を取り出した。それは夜会の招待状なのである。
「来る一月十八日月曜夕刻より官宅において舞踏大会相催し候ついては貴殿並びに御令閨にも万障御繰り合わせの上御出席の栄を得度右および御案内候也」
 宛名は二人の名前になっている。そして麗々と官長夫妻の署名がしてある。
 喜ぶと意《おもい》の外、彼女はその招待状を食卓の上に投げつけた。そして、如何にも蔑すんだ様子を面にあらわして、
「貴郎《あなた》、そんなものを私に見せて一体如何しろとおっしゃるんですの」と唸いた。
「お前がさぞ喜ぶことだろうと思ったからさ。この頃お前も滅多に外出《で》たことがないし、丁度いい機会《おり》だと思うがね、招待状を貰うにはこれでも一通りや二通りの苦心じゃあなかったのさ。同僚の者など誰一人行きたがらぬものはないが、これを貰ったのはごく少数《わずか》の人なので、たかが属官風情の私などが出席できるというのは、殆ど異例といってもよい位なものさ。とにかく官界の連中が総出というのだそうだからねえ」
 彼女は焦燥《じれっ》たそうな眼つきをして、
「貴郎は一体私に何を着せて下さるおつもりです?」
 夫は左様なことには一向気がつかなかったのだ。妻からこうたずねられたのでちょっとまごついて、
「芝居に行くときの服装《なり》でいいじゃないか、あれはお前に大変よく似合よ」
 こういうて妻の方を視た。みると彼女は鳴咽《ない》ている。涙が頬を伝って流れている。夫は吃りながら、
「ど、どうした、オイ、どうした?」
 彼女はせきくる涙を無理にとどめて、頬を拭いながらわざと声を落ち着けて、
「何でもありません。衣物がないばかり、それで如何して夜会なぞにまいれましょう。お仲間の方の奥さんが私より、ズートお召のよいのを持っていらっしゃる方があるでしょう、左様《そう》いう方に進上《あげ》たらいいでしょう――なにも……」
 夫は失忘した。が気をとりなおして、
「まあ、機嫌をなおして、私のいうことも聞いてもらわなくっては困るね。夜会に行く服装というのは一体どの位で出来るものかね、せいぜい安く積もって、え?」
 彼女はしばし思案にくれていた。自分の夫のような働きのない気の小さい人に衣物の価値《ねだん》を話したら、さぞ驚くことであろう。よい返事をせぬにきまっていると心では思いながら、如何にも躊躇したように答えた。
「精確《しっかり》とは存知ませんが、四百フランも御座いましたら、どうかなるでござんしょう」
 夫は少しく青くなった。彼は翌年の夏あたり同僚とナンテルの方面に銃猟に行くつもりで、そのためにかねて銃を買うつもりで貯えた金が四百フランばかりあるのだ。
 夫は思い切ったという調子で、
「よし、それならお前に四百フラン遣るから、好きな衣服を買ってくるがいい」
 夜会の日が近づいた。が、彼女は如何したものか沈み勝ちで、何かたえず心配しているようにみえた。服装《なり》もチャント[#「チャント」に傍点]、準備《ととの》ったのである。夫は不思議にたえない。で、ある晩に彼女にたずねた。
「如何した、この二、三日おまえの様子が如何もへんだよ。また、なにか心配なことでもあるのかね?」
「衣服はこれでよいとしても、飾りになる宝石が一ツだってある訳ではないし、私いっそ、もう夜会に参ることはよしましょう」
「それなら、花でもつけてゆくさ、時節柄キット[#「キット」に傍点]よく似合うよ。なに、十フランもあれば見事な薔薇が買えらあね」
「嫌ですよ、立派な貴婦人《かたがた》の前に出て、貧乏くさく見える位恥ずかしいことはありませんからね」
 彼女は中々承知しない。
 夫はなにごとか思いついたらしく、
「お前も余程馬鹿だねえ。それ、お前の親友のフオレスチャ夫人ねえ、あの人の処へ行けば飾り位如何かなりそうなものだねえ、え?」
「真実《ほんとう》に如何したらいいでしょう。私、今までちっとも気がつかなかったわ」
 さも嬉しそうに彼女は叫んだ。
 翌日、彼女は早速親友の処をたずねて、事情を話した。
 フオレスチャ夫人は殊の外同情して、破璃戸の填っている戸棚から大きな宝石の函をとり出してロイゼルの前に開いた。
「さあ、どれでもお気に召したのを」
 彼女はまず腕環をみた。それから真珠の頸飾り、ヴェネシアの十字架、その外精巧を尽くした金銀宝石の種々の飾りを一々手にとってみた。そして、鏡の前へ立って、それを身体の彼処此処《あちこち》へつけて眺めまわした。これかそれかと定めかねてしばし躊躇した。
「もうこの他に御座いませんか?」と口癖のようにいいながら、
「いいえ、ないことも御座いませんが、如何いうのが全体お好きなのやら」と夫人は曖昧な返事をする。
 彼女はとうとう黒い箱の中に入っているすばらしいダイヤモンドの頸飾りを見つけだした。彼女がそれを手にした時はさすがに動気が激しくなって、手さえふるえていた。そして、頸にかけて鏡に向かった時は自分の姿につくづくと見惣《みと》れて、あまりの嬉しさに言葉も出なかった。何も彼も打ち忘れて、が、如何にも心苦しそうに、
「こればかりでよろしいのですが、如何でしょう」
「ええ、よろしゅう御座いますとも」と案外の返辞。彼女は嬉しまぎれに思わず友の頸にかじりついた。左様して数多度熱い接吻《キッス》をして、後生大事と宝を抱えながら帰った。
 夜会の日が近づいてきた。ロイゼル夫人は意外な成効を博し得た。日頃の希望が達せられたのだ。胸に満ちている喜びがあふれて打ち狂える様は、実にすべての人の注目する処となった。実際、彼女は他の貴婦人連よりも遥かに優美でもあり濃艶でもあり、また一種魅するが如き力は彼女の一挙一動に供うたのである。満場の視線は等しく彼女に集められた。名前は至る処でたずねられ、交際を求むる者がひきも切らず、当夜の主人公さえ彼女に話し掛けた位であった。
 彼女は物狂おしきまで舞り狂うた。自分の美しさにすべてを打ち忘れ、勝誇った色をあくまで面に顕わした。あらゆる称賛、あらゆる栄誉を一身に担うというて、これ程女の浅薄な心を満足させるものがまたとあろうか。
 彼女は翌朝四時頃ようやく舞踏室を出た。夫は二、三の紳士と寂しい玄関の一室に眠《ね》ながら待っていた。その紳士の妻君達も彼女と同じように快楽に耽けっていたのである。
 夫は家から持ってきた外套を彼女の背中にかけてやった。それが夜会の服装と相対して如何にも見窄しくみえたのである。彼女は温かい毛皮の外套に身を纏《つつ》んだ婦人に見られるのを嫌うて、それを着なかった。
 ロイゼルは妻を止めて、
「オイ、それでは風邪をひく、今馬車を呼んでくるからちょっと待っておいで」
 親切な夫の言葉には少しも耳をかさず、彼女はスタスタ[#「スタスタ」に傍点]と階段を下りて戸外へ出た。ロイゼルは仕方なく後について、間もなく二人は一諸になって馬車を探し始めた。ようやく一台見つけたので遠くからその馬車を呼んだ。二人は寒いので震えながらセイヌを側うて下って行った。辛うじて彼らは一台の馬車に追いついた。その馬車というのは二人乗りのノクタンブランで、以前にはよく白昼でも巴里の街中を歩いたものだが、今では夜
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