変なあたま
――最近の心境を語る――
辻潤
「最近の心境を語る」というのが与えられた題名なのだが今のところ別段とりたてて「心境」という程の纏まった気持も抱いてはいないから出まかせに書いてみようと思うのだ。つまり頭がひどく空虚で、ぼんやりしているというのがまちがいない「心境」なのだけれど、それではあまりアッケないからどんな程度に空虚でぼんやりしているかという説明のつもりでなにか書いてみようというのだ。今年の六月の初めにI病院を退院してから、僕はまだ文章らしいものといったら、「よみうり」に寄せた十枚の原稿以外にはなにも書いていないのだ。なにか書いて見ようという気持が時々起らないでもないが、どうも変なことを書いてしまいそうな不安が伴っていつでも中止してしまうのだ。それほど自分というものに対してひどく自信がなくなってしまっているのである。
いまのところ自分は完全な「廃人」なのである。もし、引きとり手がなかったら自分は瘋癲病院に今なお一患者として止まるか、養育院にでも鞍替えしているかも知れないのだ。幸いそんなことにもならずに暮らしていられるのはありがたいことだと思っている。なにしろ気狂いというものは異常に神経を昂奮緊張させるものでその状態から回復した後は反動としてこんどはまたひどく神経が弛緩してしまうものらしい。自分がながい間まことにぼんやりしているのはそのためだと思う。それに長年の習慣だった飲酒を著しく節しているので生理的にもかなり変化が生じてどうも甚だ具合がよろしくないのだ。めったにカゼなどひいたことはなかった[#底本の「ひいたこにはなかった」を「ひいたことはなかった」に訂正]のに、この頃ではすぐとカゼをひいてねたりするのはまったく酒を飲まないからだと考えている。しかし、自分がまたもとのように酒を飲めば人にも心配をさせ、自分も亦再び瘋癲病院の住人になる恐れがあるから謹しんでいる次第ではあるが――まったく厄介なことになってしまったとツクヅクいやになってしまうのである。
さて、世の中は愈々益々紛糾錯綜をきわめてゆくばかりのように見えるが、どうせ人間という生物の存在している限りはいつでも大差なく数の比例によってウルサイ程度に多少の加減があるのみでどッちへころんだところで御互に所詮楽にはなりそうもないと思われる。自分も貧弱な頭を絞って若い時から少なからず自他に就いて及ばずながらやきもきしてみたが近頃ではとんと根気まけがしてなにも考えないようになってしまった。つまり考えてみてもどうにもならんと諦めてしまったのだ。まことに意気地ない話だが、すっかり兜をぬいでしまったのである。但し、困ったことにそんな風になると一切万事が自分にとってまるで無意味に無価値になると同時に、自分という渺たる一存在もこの世の中からまったく無用なものとして取り扱かわれても更に文句の申し立てようもなく、いずれの組合仲間からも無関係な人間で、まったくひとりぼっちになってしまった形で、どうして生きていいかわからなく[#底本の「わかなく」を「わからなく」に訂正]なってしまったのである。その上、ブラブラしていられる財産でもあればとも角、無一物に等しい身分だから忽ち周囲に迷惑をかけることになるのである。せめて、今迄のようにいくらかでも文章を書くことによって若干の金を得られるならいいと思うが、その文章が一向書けなくなってしまったのである。つまり、頭が空虚になってしまった上、文字を書く興味が著しく減じてしまったのである。精神がもぬけのからになって、残骸が徒らに呼吸しているというような状態なのである。自分でもなるべく早くこのような状態から脱却したいと考えているのだが、あせッてみたところで仕方がないと思っている。これは自分の精神病がまだ充分に回復していない証拠だともいえる。健康でエネルギイがありあまっていればまさかこんなことはあるまいと思われる。さて、いつまでこんな愚痴を並べても読む人もつまらんし、自分も一向に面白くないのだが、「心境」を正直にさらけ出せばこんなことになるので、初めから気乗りがないのだが、強いて書かせられているのだからいたしかたがない。たまに元気が出たかと思うと、気が狂っていたりしたのでは、実際助からない。
話はちがうが、人間というものはいつでも真理とか真実とかいうものを求めているようなことを昔から度々口にしているようだが、どうも一向あてにはならん。実際、真理とか真実というものはあまりに平凡で日常目の前に腐る程ころがっているので、人は最早それには見向きもせず、あり得ないなにか珍らしく新しいものを探しまわっているらしいが、そんなもののないこともあまりに当然で、よしそれが新しく珍らしく僅かの間見えるにしても元々種は同じ外見だけが一寸そんな風に見えるだけなのであるから、すぐと
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