――まるで自分の存在は自然や他人の恩恵の真中で辛うじて保たれているとしか思われない。けれど、かほどにまで周囲の恩恵を蒙むッている自分は果して幸福なのであろうか?――ところで、少しも幸福ではないのは何故であろう。一切が他人の恩恵から来る幸福で、決して自分が真に自分から要求して、獲得した幸福ではないからだ。なぜ土地は人の物で自分のものではないか? なぜ家は人の物で自分のものではないのか?――持てる人と持たざる自分とは人として果してどれ程の相異があるのか? なぜ他人が所有権を持って、自分にはそれがないのか――こんなことを漠然と考えてくると、僕はいい知れぬ不安に襲われて、又今更のように、この世に自分の安住の場所のないことを泌々と感じさせられるのである。それはお前に金というものがないからだ、と教えてくれる人がある。金はどうして得られるのか?――と訊ねると、それは働くことによって得られるといわれる。しかし、単に働くことによって、人は果してどれ程の金を獲ることが出来るであろうか?――そして働かないでは、どうして金を獲ることが出来ないであろうか?――働くとは抑々どういうことなのか?――
自分は考えると頭が混沌として来るので、いつでもそれを有耶無耶に葬ってしまう――そして所定めず目的なしにフラフラと歩き出す――歩いている間、動いている間はいつの間にか甚だ呑気になって、目前の周囲の移り変わりに心を惹きつけられ、気をとられて一切を忘却してしまうのである。そして、人間の姿の一人もいない広々とした野原などを青空と太陽と白雲と山と林と草と樹と水などにとりかこまれて、悠々と歩いていると、それ等の物象がいつの間にか悉く自分の物であるかのような気がしてきて、聊か自分の心が気強くなり、落ちつきを得たように思うのである。つまり先にもいった通り、それ等の物象と同化して、自他の区別がつかなくなるところから、一切が自分の物であるかのようなイリュウジョンを起すことになるのであろうか?
近頃、僕は自分の求めている幸福という物の正体が稍々ほんとう[#「ほんとう」に傍点]にわかってきた様な気がしている。それはなにか? 真理を体得するというようなことか? 自由に生きるということか? 芸術に生きるということか? 巨万の富を得て、物質的に充足した生活をすることか? 知識を出来るだけ多く獲得するということか? 小説でも書いて有名になるということか? 社会運動に従事して、献身的に働くことが出来るということか?――なる程、それ等の慾望もそれぞれに容易に充たされることが出来、それに生き得られたら相応に自分は幸福を感じることが出来るであろう。しかし、自分の真に求めている幸福はそれ等の物が束になって来ても決して充たされないのである。それならばなにか? 一人の女性の全部の愛である。そして、自分もその一人の女性を自分の全部をあげて愛することである。それが出来さえしたら、その他の慾望はなに一ツ充たされないでも、自分は幸福に生き得られると思う。この考えをある友達に打ち明けたらそれは世の中で一番贅沢な要求だそうである。しかし、僕はそのゼイタク[#「ゼイタク」に傍点]を望むのである。それさえ出来れば僕は立ち所[#底本「立所」。読みにくいので『選集』により訂正]に幸福人になり得ると思う。それが満たされない限り、如何にその他の慾望が満たされても、それは決して自分を満足させることは出来ないと思う。僕はかかる異性を求めて、的のない流浪を続けようと思う。
僕は省みて自分がなに一ツ持たない人間だということを痛切に感じる。名誉も地位も財産も、知識も腕力も美貌も技能もなんにもない男だ――それでもせめて年でも若いなら、未だしも最早不惑の年に手が届きそうになっている。それにも拘らず尚一ツ、若く美しくやさしい女性の愛を(しかも全部の)要求しているのだ。――なる程、無理かも知れない、出来ない相談かも知れない。しかし、僕はそういう女性を見出す迄は頭髪が悉く白くなり、顔面が皺苦茶になり、身体が痩せさらばえるまで、この地上を七転八倒しながら、呻吟《うめ》き苦しみながら、のた[#「のた」に傍点]打ちまわって浮浪しようと思う――恐らく、そのような女性の片鱗をさえ仰ぐことが出来ずに何処かの野末か陋巷に野垂死をすることになるだろう――そうなったら、それまでの話である。死んでから先のことは今から考えても追付かない。
若しそんな女性を発見し得たなら、どんな苛酷な所謂資本主義制度の中ででも、どんな残酷な国家制度? の下でも、どんな不自由な、窮屈な目に遇わされてでも自分はそれ等の一切を耐え忍んで幸福に生き得られると思う。或は自分達の愛の生活が充ち溢れて、まるでそんなことを意識することさえ不可能になるかも知れない。そんなことを考える余裕さえなくな
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