ならない。
3
真空溶媒(Eine Phantasie im Morgen)凡ゆる場合に詩人の心象はスケッチされる。万物交流の複合体は、すでに早くもその組立や質を変じて、それ相当のちがった地質学が流用され、相当した証拠もまた次々の過去から現出し、みんな二千年ぐらい前には青ぞらいっぱいの無色な孔雀がいたとおもい、あるいは白堊紀砂岩の層面に、透明な人類の巨大な足跡が、まったく発見されるかも知れないのだ。
楢と※[#「木+無」、第3水準1−86−12]とのうれいをあつめ
蛇紋山地に篝をかかげ
ひのきの髪をうちゆすり
まるめろの匂のそらに
あたらしい星雲を燃せ
dah−dah−sko−dah−dah
肌膚を腐植土にけずらせ
筋骨はつめたい炭酸に粗び
月々に日光と風とを焦慮し
敬虔に年を累ねた師父たちよ
こんや銀河と森とのまつり
准平原の天末線に
さらにも強く鼓を鳴らし
うす月の雲をどよませ
Ho! Ho! Ho!
原始林の香《にお》いがプンプンする、真夜中の火山口から永遠の氷霧にまき込まれて、アビズマルな心象がしきりに諸々の星座を物色している。――ナモサダルマブフンダリカサス――トラのりふれんが時々きこえて来る。それには恐ろしい東北の訛がある。それは詩人の無声慟哭だ。
屈折率、くらかけの雪、丘の幻惑、カーバイト倉庫、コバルト山地、霧とマッチ、電線工夫、マサニエロ、栗鼠と色鉛筆、オホーツク挽歌、風景とオルゴール、第四梯形、鎔岩流、冬と銀河鉄道――エトセトラ。
若し私がこの夏アルプスへでも出かけるなら、私は『ツアラトウストラ』を忘れても『春と修羅』とを携えることを必ず忘れはしないだろう。
夏になると私は好んで華胥《かしょ》の国に散歩する。南華真経を枕として伯昏夢人や、列禦寇の輩と相往来して四次元の世界に避暑する。汽車賃も電車賃もなんにも要らない。嘘だと思うなら僕と一緒に遊びに行って見給え。
4
言葉の感覚――近刊『ですぺら』の広告文に私は『ですぺら』といったってアンペラやウスッペラの親類ではない――と書いた。するとそのたって[#「たって」に傍点]という奴がたとて[#「たとて」に傍点]になっている。これは僕にとっては恐ろしい致命傷だ。更に、そのいったとて[#「いったとて」に傍点]がいうたとて[#「いうたとて」に傍点]になりいうたかとて[#「いうたかとて」に傍点]になったら、私は自殺するより他に方法はないだろう――いうたかとて[#「いうたかとて」に傍点]――親戚やおまへん[#「親戚やおまへん」に傍点]――などとやられたら、息を引き取った奴がこんどは逆転して蘇生するにちがいない。まったく言葉という奴は恐ろしい生き物だ。
ルナアルやモランが最近訳されたことは僕のひそかに喜びとするところだ。堀口君の『夜ひらく』はまだ拝見はしないが、嘗つて明星所載の「北欧の夜」の一部だけは読んでいる。僕も偶然にもその頃、ルナアルの小品とモランの詩とを訳して「極光」という雑誌に載せたが記憶している人は少ないだろう。それは中西悟堂が松江から出していた同人雑誌なのだから。私はなぜモランを訳したか別段深い意味もない。彼が仏蘭西のすぐれたダダの詩人だからだ。彼は教養ある若き外交官であり立派な一個の紳士である。しかし日曜に彼の処へ電話をかけると、自分で「御主人は只今瑞西へ御旅行中です」というのは如何にもダダの詩人がいいそうなことだ。堀口君は最初に彼をダダの詩人として紹介されていたようだが、こんどは新印象派として紹介されたのは訳者堀口君もどうやら真正のダダイストらしい。巴里の街上で慇懃に挨拶する教養ある紳士はたしかにダダイストなのである。ダダを気狂いや、変態性慾の代名詞だとばかり早呑み込みをする諸君に一応御注意を促して置く。これ以上シャベッていると新潮社から御礼のくる恐れがある。
鋭い嗅覚と触覚――それはいつの時代でも科学と文芸とに恵まれている。哲学、宗教、政治にはカビが生えて腐れかけている。かれ等の官能は盲《めしい》ている。是非もない。村山の「マヴオ」がスピツベルゲンなら、エイスケの「バイチ」はバタゴニヤだ。勿論かれ等は初めから芸術などという古い観念を破壊しているのだ。日本のヤンゲスト・ジェネレーションの最も進んだ精神がどんな方向に向かっているか? Only God knows
底本:「辻潤著作集2 癡人の独語」オリオン出版社
1970(昭和45)年1月30日初版発行
※表現のおかしい箇所は、「辻潤選集」(玉川新明編、五月書房、昭和56年10月発行)を参照して訂正。
入力:et.vi.of nothing
校正:かとうかおり
1999年11月2
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