うたとて」に傍点]になりいうたかとて[#「いうたかとて」に傍点]になったら、私は自殺するより他に方法はないだろう――いうたかとて[#「いうたかとて」に傍点]――親戚やおまへん[#「親戚やおまへん」に傍点]――などとやられたら、息を引き取った奴がこんどは逆転して蘇生するにちがいない。まったく言葉という奴は恐ろしい生き物だ。
 ルナアルやモランが最近訳されたことは僕のひそかに喜びとするところだ。堀口君の『夜ひらく』はまだ拝見はしないが、嘗つて明星所載の「北欧の夜」の一部だけは読んでいる。僕も偶然にもその頃、ルナアルの小品とモランの詩とを訳して「極光」という雑誌に載せたが記憶している人は少ないだろう。それは中西悟堂が松江から出していた同人雑誌なのだから。私はなぜモランを訳したか別段深い意味もない。彼が仏蘭西のすぐれたダダの詩人だからだ。彼は教養ある若き外交官であり立派な一個の紳士である。しかし日曜に彼の処へ電話をかけると、自分で「御主人は只今瑞西へ御旅行中です」というのは如何にもダダの詩人がいいそうなことだ。堀口君は最初に彼をダダの詩人として紹介されていたようだが、こんどは新印象派として紹介されたのは訳者堀口君もどうやら真正のダダイストらしい。巴里の街上で慇懃に挨拶する教養ある紳士はたしかにダダイストなのである。ダダを気狂いや、変態性慾の代名詞だとばかり早呑み込みをする諸君に一応御注意を促して置く。これ以上シャベッていると新潮社から御礼のくる恐れがある。
 鋭い嗅覚と触覚――それはいつの時代でも科学と文芸とに恵まれている。哲学、宗教、政治にはカビが生えて腐れかけている。かれ等の官能は盲《めしい》ている。是非もない。村山の「マヴオ」がスピツベルゲンなら、エイスケの「バイチ」はバタゴニヤだ。勿論かれ等は初めから芸術などという古い観念を破壊しているのだ。日本のヤンゲスト・ジェネレーションの最も進んだ精神がどんな方向に向かっているか? Only God knows![#地付き](大正十三年七月十三日)



底本:「辻潤著作集2 癡人の独語」オリオン出版社
   1970(昭和45)年1月30日初版発行
※表現のおかしい箇所は、「辻潤選集」(玉川新明編、五月書房、昭和56年10月発行)を参照して訂正。
入力:et.vi.of nothing
校正:かとうかおり
1999年11月2
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