書斎
辻潤

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)枝折《しお》り
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 私は長い間、書斎らしい書斎も本箱も何も持たないことをさも自慢らしく吹聴してくらしている人間のひとりなのです。文筆生活をしていながら、未だ生まれて万年筆というものを買ったことさえないのを、さも立派な趣味ででもあるかの如く心得て暮らしている人間なのです。
 昔、私が二十歳時分の頃、小学校の代用教員に雇われて月給十五円也を頂戴している頃のこと、女の先生と机を並べてカアライルの『サルタル・リサルタス』を苦虫を噛み潰したような顔をしながら読み耽っていた時分、私は自分達が間借りをしている薄汚ない六畳一間のことを考えて、しみじみとひとりで落着いて物を考えることの出来る書斎でも欲しいと思ったことがありました。
 ある時、私はなにかのついでに職員室でそんな風なことを漠然と話したところ、みんなからすっかり嗤われてしまったのです。つまり十五円の月給をもらっている代用教員が書斎が欲しいなどというのはあまりにロマンチックな考え方で、如何にもかれらにとっては可笑しくきこえたにちがいありません。全体、書斎などを持ってなにをするのか? 第一、書斎というからには少なくとも書物の百冊や二百冊位はなければならない。それに書斎で、全体私のような人間がなにをやるのか? せいぜい雑誌の二、三種類位読むに過ぎない。書斎ズラがあってたまるか?――というような腹がかならずあったに相違ありません。私は自分が真から考えていたことを一笑に付してしまわれたので、恥ずかしくもあり、腹立たしくもあったのです。私はその時分、心から色々な書物をゆッくり読む時間と場所とが欲しかったのでした。
 私はなにも立派な書斎らしい書斎が欲しいといったわけではなかったのです。つまり自分が静かに落ち着いていられる部屋が欲しいという程の意味に過ぎなかったのです。
 その後、私が五、六年辛抱した結果、ようやく私の趣味を満足するに足る一軒の巣を見つけ出したのです。それは東京の西北の郊外にでした。そこに私は母と妹と三人暮らしでいました。思えばその時が今までの生活のうち最も静かな幸福な時だったに相違ありません。
 その家は丘の上に建てられていました。間数は僅か三間で六畳と三畳と四畳半という極めてささやかな家でしたが、植木家が家主だけあって、家の造りが極めて瀟洒で、庭が比較的広く、庭木も椿とか南天とか紫陽花とかさまざまな種類が植えられていました。四畳半が茶の間で、それが玄関のあがり口にありましたが、親しい訪問客は門を入ると左側の枝折《しお》りがありましたから、そこから中の六畳に通すことにしていました。
 奥の三畳がつまり私の初めて見つけ出した理想的な書斎だったのです。その部屋は中廊下に隔てられた茶室風な離れで、押入れも床の間も廻り縁もついた立派に独立した部屋だったのです。
 私はこの三畳の部屋にひとり立て籠って妄想を逞しくしたり、雑書を乱読したりすることをなによりの楽しみにしていました。
 勿論、部屋の装飾といってはなにもありませんでした。僅かに床柱に花が投げ込まれていた位なものです。しかし床の間には竹田《ちくでん》の描いた墨絵の観音と、その反対の壁には神代杉の額縁に填められたスピノザの肖像がかかっていました。その軸も肖像も両《ふた》つながら私のながい間愛好してきたものですが、今では二ツとも手許にはありません。
 自分はそれで頗る満足して暮らしていたのでした。ただ自分の職業からくる単調さが時々私を憂鬱にした位なものでした。つまり、私には元来野心というようなものがなかったからなのでしょう。
 今でも私はその郊外の閑居で過ごした夏の夕暮の情景を忘れることが出来ません。
 丘の下は一帯のヴァレイで、人家も極めて少なく、遥かに王子の飛鳥山を望むことが出来ました。なんという寺か忘れましたが、谷の向こう側にあるその寺から夕暮にきこえてくる梵鐘の音は実に美しい響きをそのあたりに伝えました。樹々の間から洩れて来る斜陽、蜩の声、ねぐらにかえる鳥の姿、近くの牧場からきこえてくる山羊の声――私はひとり丘の上に彳立んで、これらの情趣を心ゆくまで味わったのでした。それはたとえ消極的ではあったかも知れませんが、静かな幸福を自分にもたらしてくれたのです。
 その後、約十五、六年の間、私は書斎などということを全部忘却してでもいるようにして暮らしているのです。つまり、生活の土台が安定していないからで、出来るならどんなところにいても自分の思うような仕事が出来ればいいなぞとただ不精な考え方をしているのです。
 由来、日本の社会様式や家の構造は、人間になるべく仕事をさせないように故意に出来ているといっても過言ではありません。殊に少しく実の入った精神的な仕事を
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