れでなければならないなどという客観的標準は一つだってありはしないのである。人は相互に出来るだけ融通をきかせよである。
いうまでもなく一種の功利主義かも知れない。しかし名称はなんでもかまわない。名前をつけないと安心出来ない人は自分の好きな名前をつけるがいいのである。
『唯一者とその所有』という書はこれまでの哲学史上からは殆ど無視されてきた。つい近頃、僕は吹田氏の訳したヴンデルバンドの『十九世紀独逸思想史』という書を瞥見したが、その中でもヘエゲル左党の一人によって書かれた「奇異なる」一個の著作として辛うじてその存在を認められている位なものである。若しこの書が哲学としての価値がないのなら、「自我」のロオマンスと呼んでも差支えはあるまい。如何に永い間、「自我」が色々な物によって迫害され、虐遇されたか、――そしてそれが如何にしてスチルネルの力によってその本来の姿に立戻ることが出来たかという全二巻のロオマンスと見做してもよかろう。或は「自我」を極度に高調した哲学的抒情詩だといってもいいかも知れない。ロオマンスや詩などいうものが現実の世界と没交渉などと考える人にはそう考えさせて置いてもよろしい。ま
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