自分だけの世界
辻潤
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)略々《ほぼ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)よし[#「よし」に傍点]
[#…]:返り点
(例)能物[#レ]物。
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これは読者のためではなく寧ろ自分の覚え書きのつもりで書いて置くのである。だが読者にも何等かの参考にならないとも限らない。自分はこの書(自我経)を訳了した時にはなんとなく仕事らしい仕事を片付けたような気がした。他の人から見たらなんでもないことかも知れないが自分だけには意味がありそうに思われたのである。
自分は十年も前に読み始めた本をやっと今頃になって訳了したのである。翻訳の意志は元来此書を読み始めた時から萌してはいたがそれを何時始められるか、又何時終わるかはまるで見当がついていなかったし、よし[#「よし」に傍点]訳したところで出版が果して可能であるか否かさえ勿論わからなかったのである。それにこの難解な書物を自分でよく訳了し得るかどうかということも頗る疑問であった。今、自分はそれでも「やっと片付けた」と考えると少しは嬉しいような気持にもなるのである。
自分はこれを完全な翻訳だなどと公言することは遠慮しよう。なぜなら重訳である上にかなり無理が伴っているからである。それは第一僕自身のカルチュアに原因してはいるが、自分の経済的不如意が、どうしても落ちついてこの仕事をさせるようにしないからである。これは甚だ無気力な弁明ではあるが、事実は如何とも仕方がない。自分は自分の力だけのことしきゃ出来ないのだから。しかしどうかしてこの書を一字一句余さずに精読(実際自分のような「手から口へ」の生活者には翻訳でもする以外にはそんな余裕は与えられはしない)したいという強い気持が自分に元々あったために、時々起る馬鹿々々しいという気持を幾度となく押え付けて、やっと漕ぎつけた次第なのである。
僕は少年の時分から早く世間の苦労をさせられたせいか、今考えても早熟なマセタ不愉快な少年だった。それに体質が元来丈夫ではなかったから、頗る陰気でもあった――十二三の頃から世の中というものはあまり愉快なものじゃない。イヤなところだという[#「いう」は底本では「いうう」]ことを泌々頭の中に注ぎ込まれた――だから、世間並の少年のように運動や遊戯をあまり好まなかった――黙って一人でなにか考えこんでばかりいた。学校へ行くことなども勿論、あまり好きではなかった。従って大方の少年の空想するように、英雄豪傑になろうとか、大政治家になろうとか、そんな希望や野心を抱いたことは一度もなかった――第一「なに」になろうなどということもハッキリ考えたことは殆どなかった――それならどんなことを考えていたかというと、実に考えてもなんにもなりそうもないことばかりを考えていた――「全体世の中というのはなんであるか?」「人間とはなにか?」「人間は全体どうしたら一番よく人として生きられるのか?」「神というような者は果して存在しているのだろうか?」「なんのために人生は存在しているのか?」(等)――つまりむずかしくいうと「形而上学的要求」という奴をやっていたのだ――僕の十四五時分の愛読書(今でも時々引っ張り出して読む)が「徒然草」であったことを考えて見ても自分のその頃の心持は略々《ほぼ》察せられる。それから、英語を習い始めてから学校で「ユニオンの第四読本」などを教わっているうちに、いつの間にか基督教にかぶれ出して、今迄手にしていた文学の書物を悉く棄てて宗教の書物ばかりを読むようになった――そんな風で十九歳頃までは基督教信者だった――しかし自分の理性が次第に目覚めて知識的要求が強くなるに従って、単純な宗教では満足出来なくなって来たとみえて、手当り次第に色々な本を解らぬながらも読んでみるようになった――その頃、日本の精神的生活に恐ろしい革命が起った――つまりその時代のヤングジェネレーションが近代的精神の洗礼を受けたのだ――それは今更改めていうまでもなく、ナチュラリズムである。この精神が日本の青年に与えた影響は実に甚大なものである。
僕は此処でその可否を論ずることはしばらく失敬するが、つまりその精神の洗礼を受けなかった連中は、“Modern Spirit”に取り残された人なのである[#「人なのである」は底本では「人のなのである」]。だから、それより一時代後に生まれた若い人達が「所謂自然主義前派」だったりなどするのはこれ又不思議でもなんでもない。兎に角、僕は幸か不幸かその大きな波をくぐって来たことだけは事実なのである。それからナチュラリズムに対する色々なリアクションが起った――その中で最も著しいのが武者小路氏を中心とした「白樺派」のイディアリズムの勃興である。その二個の精神の争
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