論である。そしてその主観は刹那々々に移り動く「創造的虚無」の仕業なのだから、名前はどうでも一寸把みどころのない空漠たるものである。自我の本体は各人が自分でそれを自覚する――つまり悟るより別段手段も方法もない。X光線でもレントゲンでも遂に「自我」の姿を透視することは不可能である。
この自覚の境地は又なんとなく「本来の面目」を云々する禅門の悟道の境地と似通っている。僕には仏教の知識が殆ど皆無といってもいいが、それでもスチルネルを読んだ後で禅宗の経典などを読むと自分だけには容易に理解出来るような気がするのである。少々異なってはいるが「創造的虚無」に例の「色空」という字を当てはめて考えてみてもいい。ところで仏教の方では未だ色々と手数をかけて、般若の哲学などと「空」という字を種々雑多にコネクリかえす空理哲学などというものがあるようだが、スチルネルの方では簡単に「不可説」で解決をつけている。そして、それが思索の働きになって現われた時にはもう既にその本来の姿からは異なったものになっているというように説いている。
スチルネルにいわせると、各人が自分の自我をハッキリ意識することが第一義である。それが自分を所有することになる。そして自分を所有することは同時に一切を所有するということである。なぜなら「万物は自分にとって無」だからである。
一寸気付いたからといって置くがスチルネルの「所有人」(Eigner)という言葉は彼自身の発明であるように見えるが、「荘子」を読むと(「荘子」は又僕の昔からの愛読書の一つである)「独有人」という言葉が出て来る。この「独有人」という言葉をそのまま“Eigner”の訳語として借用しても差支えはなさそうだ。「独有人」とはどんな人間かというと「……能物[#レ]物。明[#レ]乎[#一レ]物[#レ]物者[#二レ]之非物也。豈独治[#二レ]天下[#一]而己哉。出−[#二]入六合[#一]。遊[#レ]乎[#二レ]九州[#一]。独往独来。是謂[#二レ]独有[#一]。独有之人。是之謂[#二レ]至貴[#一]。」
ニイチエは「超人」を説いた。スチルネルには「超人」の要はなかった。「超人」は「人間らしい人間」「真人」などと同様、スチルネルにとっては無用な幻影である。自分は「血肉のこの自分」で沢山である。(仏教の「即身即仏」参照)人は生まれながらその人として完全である、その人と
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