かってきた。今迄、自分の考え惑うてきたことが一々手にとるようにハッキリと説明されている。「なる程」と思うような気持はこの本を読んでいる間に幾度となく味わされた。そしてやっと自分が安心することが出来るような気持になって来た。「自己」という物の本体をハッキリ自覚させられたのである。この自覚を一切の人間が出発点にすれば、一番まちがいないのだということがよく呑み込めた[#「呑み込めた」は底本では「呑め込めた」]。
 スチルネルを読んでから、自分は哲学の本を今迄とはまるでちがった態度で読むようになった。つまり他の文学的作品と同じに見るようになった、ロオマンスを読むと同じ気持で読むようになったのである。これより以前聖書はもう自分にとっては一種の古いロオマンスのようなものであると思われていたが、哲学の本にはまだなにか其処に優れた特別な認識によって「真理」というような手品の種が隠されているかの如く思いこんでいたのだが――その迷夢が一朝にして覚まされたわけである。
 通常スチルネルを攻撃する人は、スチルネルが一切の偶像を破壊した後に、遂に「自我」という「偶像」を立てたといって非難する。なる程、そういえばそうだといえるかも知れない。しかし彼は自分の説く「自我」をフィヒテ等の所謂「超絶的自我」或は又仏教徒などのよく口癖にする「大我」というようなものから、ハッキリ区別して、各個人の内に時々刻々動いている「血肉のこの刹那的自我」だというように断っているところを見ると、それは一定不変なものではなく、よし、それを「偶像」に祭りあげたところで、各人はその内容を各自の勝手放題に変化してゆくことが出来るのだから、一向邪魔にはならない「偶像」である。それにスチルネルは人間が好んで偶像を造り出すことに別段反対はしてはいない。要は、その「偶像」を創造者であるかの如く思い込むことを戒めているのである。主客顛倒を警告しているのである。
 彼の教義――教義哲学でも、理屈でもなんでもかまわない――は又一名幻滅の哲学だということが出来るかも知れない。なぜかというと、自己以外の一切の価値を認めないことになるからである。――そして自己の存在だけを肯定するのである。しかし、自己以外の存在の価値を一切否定するというのはいいかえれば、やはり幻滅である。自己以外に何物をも求めないのである。一切が自分の価値判断から生ずる極端な主観
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