新著『循環論証の新世界観と錯覚自我説』とは氏の哲学のエッセンスで、これだけ読めば十分にかれの思想を知ることが出来る。
 現代はまことに形而下的時代である。功利主義万能、唯物史観全盛時代である。この時にあたって、古谷氏の如き偉大なる形而上的ドン・キホーテが現出して、形而上的欲望のために万丈の光焔を吐くことは実に僕のひそかに愉快とするところである。
 形而上的思索の如きは無用の長物であるかも知れぬ。宇宙が三角であり、四角であり、自我が錯覚であると否とは生きる上になんの必要もないことかも知れぬ。しかし、必要と不必要とを問わず、人間は形而上的にも思索し得る生物であるのだ。
 西洋哲学の講釈や、東洋思想の解説者はなるほど腐る程いるかも知れない。しかし、真に独創的な思想を披瀝し、それを血肉的に体験して、日常生活の上にも、それを生かしている人間はまことに少ない。
 単なる思想は概念である。それが如何に唯物的であろうとも畢竟一つの概念である。飢えたる人間にとってはバイブルがなんの役にも立たない如く、マルクスの資本論も同様に役には立たないのである。

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 人間が生きる上において哲学や芸術が不必要だというような考えは、生きる上にタバコや酒が不必要だという説と少しもちがいはないのである。必要[#「必要」は底本では「心要」]、不必要を論じて極端に行けば人間が生きていることそのことが不必要であるとさえいえる。われわれはなんのために生きているのか、国家のためか、両親のためか、愛する女のためにか、無産階級解放のためか、芸術のためか、酒のためか、資本家のためか――生きる対象は無数に存在する。しかし、決して自分一人のわがままのためには生きてはならないのである。
 私は今、これを古谷栄一君のために書いているのである。氏の著作が一人でも多くの人々に読まれることを希望して書いているのである。私は一人の友達のために、友達を愛するがためにこれを書いているのである。
 しかし、果してそれが古谷氏のためになるかどうか私は確信は出来ないのである。偶々私の如き者がランタアンを持つためにかえって古谷氏の真価をその結果において傷つけることになるかも知れないのである。
 とに角、私がこれを書いたことは古谷式にいえば劫初から定められた一つの惰性である。古谷氏が書かせたものでも、私が書いたのでもない…
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