は精神の破産となる。若し人間が真に永遠不滅な絶対統一的な強健な自我を持っているならこんなことはない筈である。が、自我はただ個人の存在の一追加物に過ぎない。個人が一時的事情によって自我的傾向を帯びたのである。
個物、生物個体、これ等のものは本来一個とか二個とか一人とか二人とかいう数でかぞえられる存在ではない、数を超越した存在である。万有は一切が微分流動であるから海に立って水を数え、空に立って風を数えることの出来ぬように、形而上的には星を数え、魚を数えることが出来ない。ただ経験的に、方便的にある措定と仮定の上に立って数えるだけである。形而上的には一人の個人は一人でも二人でもなく、今や水の如く遍融無碍の流動在である。ただその流動が長い間の惰性によって一点を中心として緊縮せられたに過ぎぬ。死によらずんばこれ等何千万年の惰性を打砕して本然の微分流動に放化し、散却することが出来ぬ。が一度心眼を開いて黙想するならばこの縦鼻広目の活人そのままのかれを微分流動の中に放って数えることが出来る。要するに一の個人はただかれを中心として全宇宙の流動循環が浪打ち来るその一切の力の尖端における全宇宙の一表現、一仮現に過ぎない。それゆえ、個人はそのまま全宇宙である。
私は今、徒らに古谷栄一氏のパアロットになっているのではない。私はすでに十余年前から仏教の実在観に降伏してしまっている人間なのである。そうして古谷君の旧著『オイケン哲学の批難』なる著書は、私の十年来の愛読書の一ツなのである。
私は古谷栄一氏の著書に対して非常な興味をもっていたが、更にその人物に対して更にそれ以上の好奇心を抱いていた。しかし、氏の十余年以上の沈黙は私をしてしばしばかれの存在をさえ疑わしめたのであった。
しかし、偶然は私をして遂に氏との親交を結ばしめた。氏は拮据《きっきょ》十余年かれの仕事に没頭して、千数百枚にのぼる『循環論証の哲理』と、約六百余枚にわたる『錯覚自我説』と更に驚くべき創作とを完成させていたことを知ったのである。
私は形而上学の学徒でもなければ、マルクスの信奉者でもない。哲学史をすら通読したことさえない人間である。しかし、古谷君の『オイケン哲学の批難』なる書物は何ゆえか私を非常に魅惑せしめて数回反復熟読せしめた。かれは一面すばらしき詩人でもある。決して単なる形式論理的、講壇的、乾燥無味的哲学者ではない
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