到底信じられない。これは階級闘争の理窟にも応用出来る。僕は階級闘争などという生ぬるい説はきらいだ。闘争という方面から見れば男女はいうまでもなく生物の各自がみなそれぞれなん等かの意味で闘争しているのだ。生きているということは搾取《さくしゅ》していることである。唯その程度に千差万別のちがいがあるばかりだ。此処まで押し詰めると理窟はなくなってしまうらしい。
心霊問題の研究が必要か否かというような質問はある意味で愚問だともいえる。必要でないといえば、みんな不必要だし、必要だといえば一つとして必要でないものはない。だからその方面に趣味をもってやりたい人は大いにやった方がいいと思う。学問は道楽で、茶や、麻雀をやるのと大差はない。生産、生産とうるさくいう人達がいるが、そんなことは始めから問題にもならん屁理窟である。しかし、若し人間がみんな労働をしないでも、安楽に生きてゆく方法さえあればそんなことはまことにどうでもいいことになってしまうのだ。遊んでなるべく楽をしたいという本能が人間にある間は、だがいくら朝から晩まで汗水を滴らして働け働けといったって無理な理窟である。そんなことを口でいう奴に限って、自分は一向働いていない連中が多い。
ダダイズムという名称は今では既に黴が生えて場末の古道具屋の片隅に転がっている化物だが、自分のいわんと欲した意味は一般世間からは甚だしく誤解されたし、現に今でも依然として誤解されている。
自分がダダといった意味は、自分のミクロコスモス的自覚に名づけた名称にすぎない。自分はコスモポリタンであるが故に、真の愛国者である。偶像破壊者であるが故に、デイストである。自分は出来るだけ融通無碍でありたいのだ。しかし、自分は限られている存在だから、決してアブソリュートではあり得ない。
マルキシズムや唯物思想や、アメリカニズムや、大衆や、エログロや、その他一般に喧々|囂々《ごうごう》として附和雷同する街頭の流行論に附随して僕などが今更チンドン屋の旗持の一人になる必要は毫もない。自分は自分の「個」をあくまで掘って、自分でなければいえないようなことをいって見たいと欲している。読者は僕の支離滅裂な理論の矛盾に躓かないようにしてもらいたい。
底本:「辻潤著作集2 癡人の独語」オリオン出版社
1970(昭和45)年1月30日初版発行
※表現のおかしい箇所は、「辻潤選
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
辻 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング