ているのである。勿論、自分達の生活をもひっくるめての話である。どうしてもこんな不合理で馬鹿々々しい生活はあったものじゃないと思う。しかし、どうもこれが今始まったのではなく何千万年か続いているらしいのには恐縮しているのである。全体、如何なるそこに道理があるのであろうなどと考えても、せいぜい聖書の創世紀でも信ずるよりほか名案も浮んでは来ない。
一度理性を働かして物を考えると、自分は忽ち懐疑派になる。これはひどく逆説じみてきこえるかも知れないが、自分が心霊[#「心霊」に傍点]というような物の存在を信ぜざるを得ないのは自分が如何にスケプチックであるかという証拠なのである。自分に解らないものを全部否定する勇気のある人の如何に幼稚で無邪気であるかを私は嗤わざるを得ない。自分にはアインシュタインの「相対性原埋」という説が勿論よくわかってはいないが、わからないからといって彼の説が誤謬であるなどといえた義理ではない。
古谷式の個人即宇宙説からいっても人間は誰でも霊媒になる位な可能性はもっている筈である。しかし、エレメントの結合は森羅万象と共に無限に複雑しているから、「可能性」はあるが、やはりそこには特別な「天才」が存在しているわけである。普通人の聴覚とベイトウベンの聴覚とを同一視するわけにはいかないのである。犬や猫は恐らく人間の所有していない遥かに微妙な嗅覚を持っているに相違ない。
禅家では無念無想というようなことを常套語に使用しているが、やはり一種のトランス状態に没入した意味だと自分は考えている。そこになにか普通とは異なった心的現象が現われて「悟得」することになるのであろう。問答も常識的に考えると人を馬鹿にした洒落の交換とも思われるが、やはり一種のテレパシイが行なわれるのだと自分は信じている。由来、直覚は天才に付き物ではあるが、これを昔から「霊感」といったのはまことに当を得た言葉だと思っている。偉大なる科学者のすべての大発見や発明も単なる理性の働きによっては決してとげられなかったに相違ない。
自分は近頃、自分の生まれた「日本」という郷土に生息している「日本人」の正体をハッキリ把んで見たい欲望にかられている。ほんとうにハッキリした「国民性」というようなものがあるかどうか、あれば、それは実際どんな風なものなのであるか、等々に就いてである。勿論、ひどい雑種であることだけはわかって
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