とを考えてその人を幸福にしてやる自信を持たなかったのだ。
 僕は野枝さんから惚れられていたといった方が適切だったかも知れない。眉目シュウレイとまではいかないまでも、女学校の若き独身の英語の教師などというものはとかく危険な境遇におかれがちだ。
 元来がフェミニストで武者小路君はだし[#「はだし」に傍点]のイディアリストでもある僕は、女を尊敬しては馬鹿をみる質の人間なのである。従ってまた生まれながらの恋愛家でもあるのだ。
 女の家が貧乏なために、叔父さんのサシガネ[#「サシガネ」に傍点]で、ある金持ちの病身の息子と強制的に婚約をさせられ、その男の家から学費を出してもらって女学校に通って、卒業後の暁はその家に嫁ぐべき運命を持っていた女。自分の才能を自覚してそれを埋没しなければならない羽目に落ち入っていた女。恋愛ぬきの結婚。
 卒業して国へ帰って半月も経たないうちに飛び出してきた野枝さんは、僕のところへやってきて身のふり方を相談した。
 野枝さんが窮鳥でないまでも、若い女からそういう話を持ち込まれた僕はスゲなく跳ねつけるわけにはいかなかった。
 親友のNや教頭のSに相談して、ひとまず野枝さんを教頭のところへ預けることにきめたが、その時は校長初めみんなが僕らの間に既に関係が成立していたものと信じていたらしかった。そして、野枝さんの出奔はあらかじめ僕との合意の上でやったことのように考えているらしかった。
 国の親が捜索願いを出したり、婚約の男が怒って野枝さんを追いかけて上京するというようなことが伝えられた。
 一番神経を痛めたのは勿論校長で、もし僕があくまで野枝さんの味方になって尽す気なら、学校をやめてからやってもらいたいと早速切り出してきた。いかにももっとも千万なことだと思って早速学校をやめることにした。
 こう簡単にやッつけては味もソッケもないが、実のところ僕はこんなつまらぬ話はあまりやりたくないのだ。
 高々三十や四十の安月給をもらって貧弱な私立学校の教師をやっておふくろと妹とを養っていた僕は、学校をやめればスグと困るにはきまった話なのだ。僕はだがその頃もうつくづく教師がイヤだったのだ。僕はこれでも人生の苦労は少年時代からかなりやってきているのだ。十三、四の頃『徒然草』を愛読して既に厭世を志した程に僕の境遇はよくなかったのだ。僕の頭は由来、はなはだメタフィジカルに出来あがっている。だから満足に赤門式な教育を受けていたら今頃は至極ボンクラなプロフェッサアかなにかになっていたのかも知れない。だが、through thick and thin のお蔭で、そんな者にはならずにすんだのだ。そのかわりかなり我儘な人間に生きてきた。
 十九から私塾の教師に雇われて、二十に小学校の専科教師になって幾年か暮らしている間に、僕の青春は乾涸びかけてしまった。二十三や四でもう先の年功加俸だのなにかの計算をして暮らしているような馬鹿の仲間入りをしていたら、人間もたいていやりきれたものではない。いくらか気持ちののびのびした私立女学校へやってきたが、一年とは続かずとうとう野枝さんというはなはだ土臭い襟アカ娘のためにいわゆる生活を棒にふってしまったのだ。
 無謀といえば随分無謀な話だ。しかしこの辺がいい足の洗い時だと考えたのだ。それに僕はそれまでに一度も真剣な態度で恋愛などというものをやったことはなかったのだ。そうして自分の年齢を考えてみた。三十歳に手が届きそうになっていた。
 一切が意識的であった。愚劣で単調なケチケチした環境に永らく圧迫されて圧結していた感情が、時を得て一時に爆発したに過ぎなかったのだ。自分はその時思う存分に自分の感情の満足を貪り味わおうとしたのであった。それには洗練された都会育ちの下町娘よりも熊襲の血脈をひいている九州の野性的な女の方が遙かに好適であった。
 僕はその頃染井に住んでいた。僕は少年の時分から染井が好きだったので、一度住んでみたいとかねがね思っていたのだが、その時それを実行していたのであった。山の手線が出来始めた頃で、染井から僕は上野の桜木町まで通っていたのであった。僕のオヤジは染井で死んだのだ。だから今でもそこにオヤジの墓地がある。森の中の崖の上の見晴らしのいい家であった。田圃には家が殆どなかった。あれから王子の方へ行くヴァレーは僕が好んでよく散歩したところだったが今は駄目だ。日暮里も僕がいた十七、八の頃はなかなかよかったものだ。すべてもう駄目になってしまった。全体、誰がそんな風にしてしまったのか、なぜそんな風になってしまったのか? 僕は東京の郊外のことをちょっと話しているのだ。染井の森で僕は野枝さんと生まれて初めての恋愛生活をやったのだ。遺憾なきまでに徹底させた。昼夜の別なく情炎の中に浸った。初めて自分は生きた。あの時僕が情死していたら、いかに幸福であり得たことか! それを考えると僕はただ野枝さんに感謝するのみだ。そんなことを永久に続けようなどという考えがそもそものまちがいなのだ。
 結婚は恋愛の墓場――旧い文句だがいかにもその通り、恋愛の結末は情熱の最高調において男女相抱いて死することあるのみ。グズグズと生きて、子供など生まれたら勿論それはザッツオールだ。だが人間よほど幸運に生まれない限り、一生の中にそんな恋愛をすることはまれだ。はなはだしきは恋愛のレの字も知らずに死ぬ劣等人種の方が世間にはザラ[#「ザラ」に傍点]だ。
 僕は幸いにして今なお恋愛を続けている。恐らくこの恋愛は僕の生きている限り続くであろう。野枝さんの場合におけるが如き蕪雑にして不自然なものではなく、僕の思想や感情がようやく円熟しかけてきてからの恋愛なのだから、遙かに高貴でもあり純一でもある。そればかりか僕は更に若くして豊満なる肉体の所有者から愛せられている。彼女は僕のために一生を犠牲に供する覚悟でいる。それを考えると、僕は無一物の放浪児ではあるが一面なかなかの幸運児でもあるのである。故に僕は、進んで一代の風雲児をあまり羨望しようとはしないのだ。腹が減っては恋愛も一向ふるわなくなる。パンと酒なければ恋また冷やかなり羅馬のホラチウスは多分いったはずだが、金の切れ目が縁の切れ目なることはあにただに売女にのみ限ったものではない。
 無産者の教師が学校をやめたらスグト食えなくなる。教師をしていてさえ、母子三人ではあまり贅沢な生活どころか、普通のくらしだって出来はしない。だから僕は内職に夜学を教えたり、家庭教師に雇われたりしていた。――ほんの僅かの銭のために!
 僕は子供の時から文学は好きだった。しかし文学者として立つ才能を所有しているというような自信は薬にしたくも持ち合わせてはいなかった。のみならず文学は職業とすべきものではないと考えていたから、僕はそれを単に自分の道楽の如く見なしていたのである。しかしまた道楽によって生活することがもし出来たとすれば、これ程結構なことはないと考えてもいた。
 とりあえず手近な翻訳から始めて、暗中模索的に文学によって飯を食う方法を講じようとしてみた。当時の文学に対する知識は充分あったが、文壇に対するそれは全然ゼロであった。
 全体僕の最初の動機は野枝さんと恋愛をやめるためではなく、彼女の持っている才能を充分にエジュケートするためなのであった。それはかりにも教師と名がついた職業に従事していた僕にその位な心掛けはあるのが当然なはずである。で、それが出来れば僕が生活を棒にふったことはあまり無意義にはならないことだなどと、はなはだおめでたい[#「おめでたい」に傍点]考えを漠然と抱いていたのだ。
 キリスト教とソシアリズムを一応パスして当時ショウペンハウエルと仏蘭西のデカダン詩人とに影響せられていた僕は、自然派の人の中では泡鳴が一番好きでスバルの連中が一番自分に近いような気がしていた。しかしその連中の誰をもパアソナリティには知らなかった。
 僕の友達で文学をやっている人間は一人もなかった。勿論当時の大家には全然知己もなく、早稲田派でも赤門派でもなんでもない僕は直接にも間接にも文士らしい人物は一人も知らなかった。自分はひそかに尊敬していた人もあったが、その人に手紙を出したこともなく、訪問をしようとする気も起こらなかった。
 大杉君が「近代思想」を始め、平塚らいてう氏が「青鞜」をやっていた。僕は新聞の記事によってらいてう氏にインテレストを持ち、「青鞜」を読んで頼もしく思った。
 野枝さんにすすめてらいてう[#「らいてう」に傍点]氏を訪問させてみることを考えた。
 社会主義が高等不良少年の集団なら、高等不良少女の集団は「青鞜」であった。少なくとも世間の色眼鏡にはそう映じたに相違ない。自然主義、デカダン、ニヒリズム――すべて舶来の近代思想などいうものにロクなものはない。しかし、日本固有の思想は全体どんなものか知らないが、泡鳴流の説なら僕も泡鳴が好きだったから賛成してやってもいいが、およそ思想などというようなものはみんな舶来のような気がしてならない。印度や支那の思想を日本から引き抜いたら、果たしてどんなものが残るのだろう。しかし、およそ思想といったって特別それが珍重されるべきものでなく、同じ人間の頭から生まれてきたのだから、早い晩《おそ》いを論じて優劣などを争うのは馬鹿気ている。いくら借り物だろうが、よければ少しも恥ずかしがらずどしどし[#「どしどし」に傍点]と自分のものにして利用したらばいいのだ。なにも遠慮することはいらない。滑稽なのは昔借りた物を如何にも祖先伝来であるかの如き顔をして、臆面もなく振りまわしている馬鹿がいることだ。そしてそれより遙かにすぐれて進んだ物を見せつけられてもそれを借りることを恥辱であるかの如く、またなにか恐ろしく危険でもあるかの如く考えている。自分には祖先伝来の二本の足があるから、危険な電車や自動車には乗らないといって威張っているのと少しも変わりはありはしない。電気にしろ機械にしろ薬品にしろ、みんな危険といえば危険でないものは一つもない。だが、それに対する精確[#「精確」に傍点]な知識と取り扱い方を知っていさえすれば、少しも危険でもなんでもないだろうじゃないか?
 野枝さんはらいてう氏の同情と理解によって、「青鞜」社員になって働いた。僕も時々らいてう氏を尋ねるようになった。そうして随分と厄介をかけたようだ。それから当時社内の「おばさん」といわれていた保持白雨氏、小林の可津ちゃん、荒木の郁さん、紅吉などという連中とも知り合った。「新しい女」は、吉原へおいらんを買いに行き五色の酒を呑んで怪気焔を吐き、同性恋愛の争奪をやり、若き燕を至るところで拵えるというような評判によってのみ世間へ紹介された。自然主義が出歯亀によって代表されたのと少しも変わりはなかったのである。だが、昔キリスト教が魔法使いと誤られて虐殺されたことを考えると、そんなことはなんでもないことなのかも知れぬ。近い話が大杉君だが、今でも社会主義といえばやたらと巡査とケンカをしたり、金持ちをユスッテ歩く壮士かゴロツキの類だと考えている連中がいるのだから助からない。中には社会主義だと称してそんなことばかりやって歩いている人間もあるのかも知れないが、それよりも堂々ともっともらしい大看板を掲げてヒドイことをやっている奴が腐る程あるのではないか。金さえ出せば大ベラボーの売薬の広告をでさえ第一流の新聞が掲載する世の中なのだ。
 僕の文壇へのデビューは『天才論』の翻訳だったが、『天才論』は御承知の通り文学書ではない。ただその書物が面白かったので教師をやっている間に少しばかり訳しておいたのだが、それをとりあえずまとめて金に換えようとしたのであった。
 僅か今から十年も前だが、その頃のことを考えてみると、文芸がたしかに一般的になったものだ。民衆化されたとでもいうのか。当時の出版屋がロンブロゾオの名前を知らなかったのも無理はない。僕のそのホンヤク書の出版が如何に困難なものであったか、如何にバカ気た努力をそのために費やしたかは序文にもちょっと書いておいた通りだが、今でもあの本が数
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