ふもれすく
辻潤

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)早い晩《おそ》いを論じて

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ダダ[#「ダダ」に傍点]にとっては
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 題だけは例によってはなはだ気が利き過ぎているが、内容が果たしてそれに伴うかどうかはみなまで書いてしまわない限り見当はつきかねる。
 だが、この題を見てスグさまドヴォルシャックを連想してくれるような読者ならまず頼もしい。でなければクワイトえんでふわらん。
 僕は至ってみすぼらしくもおかし気な一匹の驢馬を伴侶に、出鱈目な人生の行路を独りとぼとぼと極めて無目的に歩いている人間。
 鈍感で道草を食うことの好きな僕の馬は、時々嬉しくも悲しい不思議な声を出しては啼くが、僕が饒舌ることも、その調子と声色において僕の伴侶のそれとさして大差はあるまい。
 真面目ともっともらしさとエラそうなこと、さてはまた華々しいこと――すべてそういう向きのことの好きな人間は初めから僕の書くものなどは読まない方が得だろう。
 人間はさまざまな不幸や悲惨事に出遇うと気が変になったり、自殺をしたり、暴飲家になったり、精神が麻痺したり色々とするものだ。そこで、僕などはまだ自殺をやらない代りにダダイストなどという妙な者になってしまったのだ。これからまたどんな風に変わるか、先のことなど墓場へ突き当る以外にはちょっとわかりそうにもない。
 ダダイストという奴はともかくダダ的に文句をいうことがなによりも嫌いなのだ。つまり一呼吸の間に矛盾した同時性が含まれているというようなこともその条件の一つだが、元来ダダ[#「ダダ」に傍点]にとっては一切があるせんす[#「あるせんす」に傍点]なのだから、従っていか程センチメンタル[#「センチメンタル」に傍点]でもかまわないのだ。メンタル[#「メンタル」に傍点]とまちがえては困るよ。
 一九二三年の夏、僕は昨年来からある若い女と同棲、××××の結果、精神も肉体もはなはだしい困憊状態におかれて今までに覚えのない位な弱り方を[#「弱り方を」は底本では「弱を方を」]した。それで毎日煙草を吹かしては寝ころんでいた。興味索然と、はなはだミサントロープになり、一切が癪にさわって犬が可愛らしく思われたりした。友達などがたまたま訪ねてきてくれたりすると非常に失礼をいたしたりした。
 こんな風で九月一日の地震がなかったら、僕は「巻き忘れた時計のゼンマイが停止する」ような自滅の仕方をしていたのかも知れなかった。地震のお蔭で僕は壊滅しそうになっていた意識を取りかえすことが出来たのだと自分では信じている。
 裸形のまま夢中で風呂屋を飛び出して、風呂屋の前で異様な男女のハダカダンスを一踊りして、それでもまた羞恥(ダダはシウチ[#「シウチ」に傍点]で一杯だ)に引き戻されて、慌てて衣物を取り出してK町のとある路地の[#「路地の」は底本では「路次の」]突き当りにある自分の巣まで飛びかえってくるまでの間には、久しぶりながらクラシックサンチマンに襲われて閉口した。
 幸い老母も子供も女も無事だったが、家は表現派のように潰れてキュウビズムの化物のような形をしていた。西側にあった僕の二階のゴロネ部屋の窓からいつも眺めて楽しんでいた大きな梧桐と小さいトタン張りの平屋がなかったら、勿論ダダイズムになっていたのは必定であった。
 それから約十日程は野天生活をして、多摩川湯へはいり[#「はいり」に傍点]に行った。
 少しばかりの蔵書に執着はあったが、僕は自分勝手に「永遠の女性」と命名している人の影像と手紙と彼女の残して行ってくれた短刀を取り出すことが出来たから、その他になんの残り惜しさも感じなかった。
 いのち[#「いのち」に傍点]あっての物種!――僕は無意識ながら、この平凡極まる文句を毎日幾度かお経のようにとなえては暮らした。この上一切が灰燼になったら同気相求める人達と一緒に旅芸人の一団でも組織して、全国を巡業してまわるのも一興だなどと真実考えに耽ってもみたりした。
 幸いにしてK町は火災を免れたが、それでも地震の被害はかなりに甚大だった。僕の知っていた模範青年の妹が潰されたり、親友の女工が焼け死んだりした。
 僕は季節外れの震災談をしようとしているのではないが、ついでにちょっと思い出しているばかりなのだ。
 そうだ、僕はこの雑誌の編輯者から伊藤野枝さんの「おもいで」という題を与えられていたのだった。伊藤野枝ともN子とも野枝君ともいわないで僕は野枝さんという。なぜなら、僕の親愛なるまこと[#「まこと」に傍点]君が彼女――即ちまこと[#「まこと」に傍点]君の母である伊藤野枝君を常にそう呼んでいるからなのだ。
 僕が野枝さんのことについてなにか書くのはこれが恐らく初めてだ。これまでも度々方々から彼女についてなにか書けという注文を受けたが、一度も書かなかった。なにも僕はもったいぶっていた訳でもなんでもなかったのだ。ただ書く興味が起こらなかったばかりなのだ。去年も「怪象」で大杉君が自叙伝の一節として例の葉山事件を書いた時、それに対して神近君が痛烈な反駁をした事があったが、その時も僕に両方の批判役としてなにか書いてほしいということだったが、僕には到底そんな芸は出来ないので後免を蒙った次第だった。
 僕はそもそも事件の当初からいち早く逃げ出して、あるお寺の一室に立て籠り、沈黙三昧に耽って出来るだけ世間との交渉を断絶した。勿論新聞雑誌の類さえ一切見ず、友人達からも自分の行方をくらましていた。だからその後、大杉君らの生活の上にどんな事が起こって、どんな風な経過をとっていたかというようなことについては僕は一切知りもせず、また知りたいとも思わなかった。僕はひたすら自分のことにのみ没頭していた。僕が一管の尺八を携えて流浪の旅に出たなどと噂されたのもその時分の事だった。
 さて、十日の野天生活は僕に改めていい教訓を与えてくれた。超人哲学詩人はかつて「お前の運命を愛せ」といったが、僕もそれに似通った深い感じをさせられながら夜警というものに出たりなどした。
 友達のこともかなり心配になったが、K女のお腹のふくれ[#「ふくれ」に傍点]ていることはさらに厄介な種であった。僕は彼女に時々フクレタリヤと呼んでいた。フクレタリヤに野天生活をさせることは衛生にとってあまり好ましいことではないが、入るべき家がなければ致仕方がない。
 彼女を一時彼女の里へ預けることにきめ、老母と子供とをK町からあまり遠くないB町の妹のところへ預けて僕らは出発したのであった。
 途中の話は略すが、名古屋で彼女を汽車へ乗せて僕は一人だけ残り、それから二、三日して大阪へ下車し、そこで取りあえず金策にとりかかって一週間程くらした。
 夕方道頓堀を歩いている時に、僕は初めてアノ[#「アノ」に傍点]号外を見た。地震とは全然異なった強いショックが僕の脳裡をかすめて走った。それから僕は何気ない顔つきをして俗謡のある一節を口ずさみながら朦朧とした意識に包まれて夕闇の中を歩き続けていた[#「歩き続けていた」は底本では「歩き読けていた」]。
 妹の家に預けてあるまこと[#「まこと」に傍点]君のことを考えて僕は途方にくれた。
 それから新聞を見ることが恐ろしく不愉快になりだした。だから不愉快になりたい時はいつでも新聞を見ることにきめた。
 四国のY港にはダダの新吉が病んでいる。僕はあながち彼の病気を見舞うためではないが、しばらくY港で暮らす決心がついたのでY港へやってきた。
 Y港にはS氏というモンスターのようなディレッタントがいて、僕にわがままをさせてくれるというので僕は行く気になったのだ。
 Y港へくると、早速九州の新聞社の支局の記者がきて、「大杉他二名」に対する感想を話してもらいたいといった。
 僕はどういっていいかわからないので当惑してしまった。
 ――僕はこの際なにもいう気がしませんがあなたも御職しょう柄でおいでのことですから、御推察の上よろしいようにお書き下さい――
 といった。
 すると、僕が野枝さんに対して「愛憎の念が交々」起こったりしたというような記事があくる日の新聞に出た。
 僕はそれをみてやはり記者というものはなかなかうまいことを書くものだと思って感心したりした。
 その前にはまた野枝さんが二人の子供まである僕を棄てて大杉君のところに走ったのは、よほど[#「よほど」に傍点]の事情があったらしいと書いた新聞を僕は見た。
 僕はその記者をよほどの心理学者だと思ったりした。
 野枝さんは僕と約六年たらず生活して二人の子を生んだ。だから新聞では僕のことを「野枝の先夫」だとか「亭主」だとか書くが、如何にもそれに相違なかろう。だが、僕のレエゾン・デエトルが野枝さんの先夫でのみあるような、またあたかも僕がこの人生に生まれてきたことは伊藤野枝なる女によって有名になり、その女からふら[#「ふら」に傍点]れることを天職としてひきさがるようなことをいわれると、僕だとて時に癪にさわることがある。
 癪にさわるといえば、往来を歩いている人間のツラでさえ障らないのはまずまれである。それを一々気にしていたら、一生癪にさわることを天職にして暮らさなければならなくなるだろう。感情の満足を徹底すれば、殺すか殺されることか、――それ以外に出る場合は恐らく少ないであろう。
 だから僕などはダダイストにいつの間にかなって癪にさわるひまがあれば、好きな本の一頁でもよけいに読むか、うまい酒の一杯でもよけいに呑む心掛けをしているのだ、なんと素晴らしくも便利な心掛けではあるまいか。僕の思想や感情の出発点に対して全然無知な猫杓子共は、自分のことを棚へあげて時々知ったか振りの批評がましいことをやるがはなはだヘソ[#「ヘソ」に傍点]茶でもあり、気の毒でもある。
 僕は君達の生活に指一本でも差そうとはいわないのだ。よけいなおせッかい[#「おせッかい」に傍点]はしてもらいたくないものだ。
 野枝さんと僕が初めて馴れ染めてからのおもいでを十年あまりも昔にかえってやることになると、なかなか小説にしてもながくなるが今は断片に留めておく。原稿商売をしていればこそこんなことも書かなければならないのかと考えると、まことに先立つものはイヤ気ばかりだ。
 野枝さんは十八でU女学校の五年生だったが、僕は十ちがいの二十八でその前からそこで英語の先生に雇われていた。
 野枝さんは学生として模範的じゃなかった。だから成績も中位で、学校で教えることなどは全体頭から軽蔑しているらしかった。それで女の先生達などからは一般に評判がわるく、生徒間にもあまり人気はなかったようだった。
 顔もたいして美人という方ではなく、色が浅黒く、服装はいつも薄汚なく、女のみだしなみを人並以上に欠いていた彼女はどこからみても恋愛の相手には不向きだった。
 僕をU女学校に世話をしてくれたその時の五年を受け持っていたN君と僕とは、しかし彼女の天才的方面を認めてひそかに感服していたものであった。
 もし僕が野枝さんに惚れたとしたら、彼女の文学的才能と彼女の野性的な美しさに牽きつけられたからであった。
 恋愛は複雑微妙だから、それを方程式にして示すことは出来ないが、今考えると僕らのその時の恋愛はさ程ロマンティックなものでもなく、また純な自然なものでもなかったようだ。
 それどころではなく僕はその頃、Y――のある酒屋の娘さんに惚れていたのだ。そしてその娘さんも僕にかなり惚れていた。僕はその人に手紙を書くことをこよなき喜びとしていた。至極江戸前女で、緋鹿の子の手柄をかけていいわた[#「いいわた」に傍点]に結った、黒エリをかけた下町ッ子のチャキチャキだった。鏡花の愛読者で、その人との恋の方が遙かにロマンティックなものだった。この人の話をしていると、野枝さんの方がお留守になるから、残念ながら割愛して他日の機会に譲るが、とにかく僕はその人とたしかに恋をしていたのだ。だから、僕はとうとうその人の手を握ることをさえしないで別れてしまった。僕はその人のこ
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