実を知って、彼女を足蹴りにして擲った。前後、ただ二回である。別れる当日はお互いに静かにして幸福を祈りながら別れた。野枝さんはさすが女で、眼に一杯涙をうかべていた。時にまこと君三歳。
 大杉君も『死灰の中より』にたしか書いているはずだが、野枝さんが大杉君のところへ走った理由の一つとして、僕が社会運動に対する熱情のないことにあきたらず、エゴイストで冷淡だなどとなにかに書いたこともあったようだ。渡良瀬川の鉱毒地に対する村民の執着――みすみす餓死を待ってその地に踏みとどまろうとする決心、――それをある時渡辺君がきて悲愴な調子で話したことがあったが、それを聴いていた野枝さんが恐ろしくそれに感激したことがあった。僕はその時の野枝さんの態度が少しおかしかったので後で彼女を嗤ったのだが、それがいたく野枝さんの御機嫌を損じて、つまり彼女の自尊心を多大に傷つけたことになった。僕は渡辺君を尊敬していたから渡辺君がそれを話す時にはひそかな敬意を払って聴いていたが、また実際、渡辺君の話には実感と誠意が充分に籠っていたからとても嗤うどころの話ではないが、それに対して何の知識もなく、自分の子供の世話さえ満足に出来な
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