も度々方々から彼女についてなにか書けという注文を受けたが、一度も書かなかった。なにも僕はもったいぶっていた訳でもなんでもなかったのだ。ただ書く興味が起こらなかったばかりなのだ。去年も「怪象」で大杉君が自叙伝の一節として例の葉山事件を書いた時、それに対して神近君が痛烈な反駁をした事があったが、その時も僕に両方の批判役としてなにか書いてほしいということだったが、僕には到底そんな芸は出来ないので後免を蒙った次第だった。
僕はそもそも事件の当初からいち早く逃げ出して、あるお寺の一室に立て籠り、沈黙三昧に耽って出来るだけ世間との交渉を断絶した。勿論新聞雑誌の類さえ一切見ず、友人達からも自分の行方をくらましていた。だからその後、大杉君らの生活の上にどんな事が起こって、どんな風な経過をとっていたかというようなことについては僕は一切知りもせず、また知りたいとも思わなかった。僕はひたすら自分のことにのみ没頭していた。僕が一管の尺八を携えて流浪の旅に出たなどと噂されたのもその時分の事だった。
さて、十日の野天生活は僕に改めていい教訓を与えてくれた。超人哲学詩人はかつて「お前の運命を愛せ」といったが、僕もそれに似通った深い感じをさせられながら夜警というものに出たりなどした。
友達のこともかなり心配になったが、K女のお腹のふくれ[#「ふくれ」に傍点]ていることはさらに厄介な種であった。僕は彼女に時々フクレタリヤと呼んでいた。フクレタリヤに野天生活をさせることは衛生にとってあまり好ましいことではないが、入るべき家がなければ致仕方がない。
彼女を一時彼女の里へ預けることにきめ、老母と子供とをK町からあまり遠くないB町の妹のところへ預けて僕らは出発したのであった。
途中の話は略すが、名古屋で彼女を汽車へ乗せて僕は一人だけ残り、それから二、三日して大阪へ下車し、そこで取りあえず金策にとりかかって一週間程くらした。
夕方道頓堀を歩いている時に、僕は初めてアノ[#「アノ」に傍点]号外を見た。地震とは全然異なった強いショックが僕の脳裡をかすめて走った。それから僕は何気ない顔つきをして俗謡のある一節を口ずさみながら朦朧とした意識に包まれて夕闇の中を歩き続けていた[#「歩き続けていた」は底本では「歩き読けていた」]。
妹の家に預けてあるまこと[#「まこと」に傍点]君のことを考えて僕は途方にくれた。
それから新聞を見ることが恐ろしく不愉快になりだした。だから不愉快になりたい時はいつでも新聞を見ることにきめた。
四国のY港にはダダの新吉が病んでいる。僕はあながち彼の病気を見舞うためではないが、しばらくY港で暮らす決心がついたのでY港へやってきた。
Y港にはS氏というモンスターのようなディレッタントがいて、僕にわがままをさせてくれるというので僕は行く気になったのだ。
Y港へくると、早速九州の新聞社の支局の記者がきて、「大杉他二名」に対する感想を話してもらいたいといった。
僕はどういっていいかわからないので当惑してしまった。
――僕はこの際なにもいう気がしませんがあなたも御職しょう柄でおいでのことですから、御推察の上よろしいようにお書き下さい――
といった。
すると、僕が野枝さんに対して「愛憎の念が交々」起こったりしたというような記事があくる日の新聞に出た。
僕はそれをみてやはり記者というものはなかなかうまいことを書くものだと思って感心したりした。
その前にはまた野枝さんが二人の子供まである僕を棄てて大杉君のところに走ったのは、よほど[#「よほど」に傍点]の事情があったらしいと書いた新聞を僕は見た。
僕はその記者をよほどの心理学者だと思ったりした。
野枝さんは僕と約六年たらず生活して二人の子を生んだ。だから新聞では僕のことを「野枝の先夫」だとか「亭主」だとか書くが、如何にもそれに相違なかろう。だが、僕のレエゾン・デエトルが野枝さんの先夫でのみあるような、またあたかも僕がこの人生に生まれてきたことは伊藤野枝なる女によって有名になり、その女からふら[#「ふら」に傍点]れることを天職としてひきさがるようなことをいわれると、僕だとて時に癪にさわることがある。
癪にさわるといえば、往来を歩いている人間のツラでさえ障らないのはまずまれである。それを一々気にしていたら、一生癪にさわることを天職にして暮らさなければならなくなるだろう。感情の満足を徹底すれば、殺すか殺されることか、――それ以外に出る場合は恐らく少ないであろう。
だから僕などはダダイストにいつの間にかなって癪にさわるひまがあれば、好きな本の一頁でもよけいに読むか、うまい酒の一杯でもよけいに呑む心掛けをしているのだ、なんと素晴らしくも便利な心掛けではあるまいか。僕の思想や感情の出発点に対し
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