キモチ屋で、ダラシがなく、経済観念が欠乏して、野性的であった――野枝さん。
しかし僕は野枝さんが好きだった。野枝さんの生んだまこと君はさらに野枝さんよりも好きである。野枝さんにどんな欠点があろうと、彼女の本質を僕は愛していた。先輩馬場孤蝶氏は大杉君を「よき人なりし」といっているが、僕も彼女を「よき人なりし」野枝さんといいたい。僕には野枝さんの悪口をいう資格はない。
大杉君もかなりオシャレだったようだが、野枝さんもいつの間にかオシャレになっていた。元来そうであったかも知れなかったが、僕と一緒になりたての頃はそうでもなかったようだ。だが、女は本来オシャレであるべきが至当なのかも知れぬ。しかし、お化粧などはあまり上手な方ではなかった。
僕のおふくろが世話をやいて妙な趣味を野枝さんに注入したので、変に垢ぬけがして三味線などをひき始めたが、それがオシャレ教育の因をなしたのも知れなかった。
だが文明とか文化というのはオシャレの異名に過ぎない。オシャレ本能をぬきにして文明は成立しないだろう。僕も精神的にはかなりオシャレで贅沢なつもりである。仏蘭西のデカダン等はみなみな然りであった。
ブルジョア文化だかなに文化だか知らぬが、とにかく人間が進化するというのはオシャレになるということに過ぎない。いくらブルジョア文化に反対するプロレタ文化だって、みんなが青服を着て得意になるということばかりじゃあるまい。みんなが、人間みんなが一様に贅沢な、文化的な生活をしなくてはならないということなのじゃあるまいか?
今の資本家など称する輩はだが、たいてい財力を握っている野蛮人に過ぎないような観がある。金ピカ崇拝の劣等動物で、芸術だの学問などの趣味のわかる人間は殆ど皆無といっていい位である。だから、かれらがこしらえている都会をまず見るがいい、――いかにゴミタメの如く小汚なく、メリケン町の場末の如く殺風景であるか!
自分はすき好んで放浪している訳ではない。僕をして尻を落ち着けさせてくれる気持ちのいいところがないからなのだ。恐らく贅沢でわがままな僕を満足させてくれるような処はどこへ行ったッてないのかも知れない。
イジイジコセコセと変に固苦しく、生活を心の底からエンジョイすることを知らず、自分の感情を思う存分に托する歌一ツだに持たず、狭い自分達の箱の中でお互いに角つき合い、眼くじらを立て、低能児
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