ちして、困りぬいた揚句、乳児の流二君を上総の海岸にオイテキボリをくわしたのであった。
幸運なる流二君は親切にも無教育な養父母の手に養われて目下プロレタ生活修業中であるが、上総ナマリのテコヘンなるアクセントにはさすがの僕も時々閉口するのである。しかし流二君は恐ろしく可愛がられている。わがまま放題に育てられている。――それ以上を望むことは僕の如き人間の要求する方がまちがいである。流二君、願わくば素敵なダダになれ!
僕角帯をしめ、野枝さん丸髷に赤き手柄[#「手柄」に傍点]をかけ、黒襟の衣物を着し、三味線をひき、怪し気なる唄をうたったが、一躍して婦人解放運動者となり、アナーキストとなって一代の風雲児と稀有なる天災の最中、悲劇的の最後を遂げたるはまことに悲惨である。惜しむべきである。更に恐ろしいことである。お話にならぬ出来事である。開いた口が塞がらぬ程に馬鹿気たことである。
同じ軍人でもネルソンもあればモルトケもいれば、乃木大将のような人もあるかと思うとアマカスとか、マメカスとかいうような軍人もいる。児雷也もドロボーなら石川五右衛門もドロボーである。ネズミ小僧やイカケの松君もドロボーである。ナポレオンなどは偉大なる火事場ドロボーだそうである。かと思うと、戦争中に兵隊に送る罐詰の中に石を入れたりするドロボーもいるそうである。同じドロボーでも随分と色々あるものだ。だから、十束一からげにされてはどんな人間でもやりきれない。鮮人が放火人で、社会主義がバクダンで、ボルシェビキが宣伝ビラで、無政府主義が暗殺で、資本家が搾取で、プロレタリヤが正直で、唯物史観がマルクスで、進化論が猿で、大本教がお筆先で、正にあるべきはずなのが大地震だったりしては、一切は鮒が源五郎で、元結は文七であるより以上にたまらない、迷惑至極な道理である。
耶蘇は小便をしても手を洗わなかったり、酒を呑んだり、淫売と交際したり、漁師と友達だったりしたということであるが、僕も実に交遊天下にあまねく、虫の好く人間なら、その境遇と職業と主義と、人格と才能と美醜と、賢愚と貧富とエトセトラの如何を論ぜず、友達になる。だから、僕の交遊の種類はまことに千差万別で、僕はどうやら、社会の職業は文士であるようではあるが、文士や芸術家以外に職人、役者、相場師、落語家、娼婦、社会主義、船乗り、アナーキスト、坊主、女工、芸者、――その他なん
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