ら、愛らしい形を拝んでは堪りません。紫色の大な眼を輝して、波のように胸の動悸《どうき》を打たせて、しきりと尻尾を振りました。鼻息は荒くなって来て、白い湯気のように源の顔へかかる。
「止せ、畜生」
 と源は自分の顔を拭いて、その手で馬の鼻面を打ちました。馬は最早《もう》狂気です。牝馬の恋しさに目も眩《くら》んで、お隅を乗せていることも忘れて了う。やがて一振、力任せに首を振ったかと思うと、白樺《しらはり》の幹に繋いであった手綱はポツリと切れる。黄ばんだ葉が落ち散りました。
 あれ、という間に、牝馬の方を指して一散に駆出す。源は周章《あわ》てて、追馳《おいか》けて、草の上を引摺《ひきず》って行く長い手綱に取縋《とりすが》りました。
 さすがに人に誇っておりました源の怪力も、恋の力には及《かな》いません。源は怒の為に血を注いだようになりまして、罵《ののし》って見ても、叱って見ても、狂乱《くるいみだ》れた馬の耳には何の甲斐《かい》もない。五月雨《さみだれ》揚句の洪水《おおみず》が濁りに濁って、どんどと流れて、堤を切って溢《あふ》れて出たとも申しましょうか。左右に長い鬣《たてがみ》を振乱して牝馬と一緒に踴《おど》り狂って、風に向って嘶きました時は――偽《いつわり》もなければ飾もない野獣の本性に返りましたのです。源はもう、仰天して了って、聢《しっかり》と手綱を握〆めたまま、騒がしく音のする笹の葉の中を飛んで、馬と諸馳《もろがけ》に馳けて行きました。黄色い羽の蝶《ちょう》は風に吹かれて、木の葉のように前を飛び過ぎる。木蔭に草を刈集めていた農夫は物音を聞きつけて、東からも西からも出合いましたが、いずれも叫んで逃廻るばかり。馬の勢に恐《おじ》て寄りつく者も有ません。終《しまい》には源も草鞋を踏切って了う、股引は破れて足から血が流れる――思わず知らず声を揚げて手綱を放して了いました。
 憐み、恐れ、千々の思は電光《いなずま》のように源の胸の中を通りました。馬は気勢の尽き果てた主人を残して置いて、牝馬と一緒に原の中を飛び狂う。使役される為に生れて来たようなこの畜生も、今は人間の手を離れて、自由自在に空気を呼吸して、鳴きたいと思う声のあらん限を鳴きました。ある時は牝馬と同じように前足を高く揚げて踴上るさまも見え、ある時は顔と顔を擦《すり》付けて互に懐しむさまも見える。時によると、牝馬はつんと憤《すね》た様子を見せて、後足で源の馬を蹴る。すると源の馬は長い尻尾を振りまして、牝馬の足を押戴くように這倒《はいのめ》る。やがて牝馬の傍へ寄って耳語《みみうち》をすると、牝馬は源の馬の鬣《たてがみ》を噛《か》んで、それを振廻して、もうさんざんに困《じら》した揚句、さも嬉しそうな嘶きを揚げる。二匹の馬は互に踴りかかって、噛合って、砂を浴せかけました。獣の恋は戯《たわむれ》です。
 急に二匹の馬は揃って北の方へ馳出しました。見る見る遠く離れて、馬の背の上に仰《あおむ》けさまに仆れたお隅の顔も形も分らない程になる。不幸な女の最後はこれです。
 やがて馬の姿も黄色い土塵《つちぼこり》の中に隠れて見えなくなりました。

       *     *     *

 源が馬の後を迫って、板橋村の出はずれまで参りました頃はかれこれ昼でした。そこには農夫の群が黒山のように集《たか》って、母親《おふくろ》の腕に抱かれたお隅の死体を見ておりました。源は父親と顔を見合せたばかり、互に言葉を交《かわ》すことも出来ません。海の口村の巡査が人を押分けて源の前へ進んだ時は、群集の視線がこの若い農夫に注《あつま》りましたのです。源は蒼《あお》ざめた口唇へ指さしをして、物の言えないということを知らせました。
 前《さき》の世に恨のあったものが馬の形に宿りまして、生れ変って讐《あだ》をこの世に復《かえ》したものであろう、というような臆測が群集の口から口へ伝わりました。巡査は父親から事の委細を聞取って、しきりに頷《うなず》く。源に何の咎《とが》がない、ということを確めました時は、両親も巡査の後姿を拝むばかりに見送って、互に蘇生《いきかえ》ったような大息《おおいき》をホッと吐《つ》きましたのです。
 群集もちりぢりになって、親戚《みうち》の者ばかり残りました頃、父親は石の落ちたように胸を撫《な》で擦《さす》りながら、
「源、お隅はお前の命を助けてくれたぞよ。さあ爰へ来て沢山《たんと》御礼を言いなされ」
 源は妻の死骸《しがい》の前に立ちまして、黙って首を垂れました。



底本:「旧主人・芽生」新潮文庫、新潮社
   1969(昭和44)年2月15日初版発行
   1970(昭和45)年2月15日2刷
入力:紅邪鬼
校正:伊藤時也
1999年12月14日公開
2000年6月27日修正
青空文庫作成ファイ
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