は、老いて春先ほどの勢がない。鶉《うずら》は人の通る物音に驚いて、時々草の中から飛立つ。「ヒュヒュ、ヒュヒュ」と鳴く声を聞いては、思わず源も立留りました。見れば、不恰好《ぶかっこう》な短い羽をひろげて、舞揚ろうとして、やがてぱったり落ちるように草の中へ引隠れるのでした。
外の樹木の黄に枯々とした中に、まだ緑勝な蔭をとどめたところもある。それは水の流れを旅人に教えるので。そこには雑樹《ぞうき》が生茂《おいしげ》って、泉に添うて枝を垂れて、深く根を浸しているのです。源は馬に飲ませて通りました。
今は村々の農夫も秋の労働に追われて、この高原に馬を放すものもすくない。八つが岳山脈の南の裾《すそ》に住む山梨の農夫ばかりは、冬李の秣《まぐさ》に乏しいので、遠く爰まで馬を引いて来て、草を刈集めておりました。
日は次第に高くなる、空気は乾燥《はしゃ》いでくる、夫婦は渇《かわ》き疲れて休場処を探したのですが、さて三軒屋は農家ばかりで、旅人のため蕎麦餅《はりこし》を焼くところもなし、一ぜんめし、おんさけさかな、などの看板は爰から平沢までの間に見ることも出来ないのです。拠《よんどころ》なく、夫婦は白樺《しらはり》の樹の下を選《よ》って、美しい葉蔭に休みました。これまで参りましても、夫婦は互に打解けません。源はお隅を見るのが苦痛で、お隅はまた源を見るのが苦痛です。きのうの事が有ましてから、源は妙に気まずくなって、お隅と長く目を見合せていられない。年若な妻が馬の上に悩萎《なやみしお》れて、足を括付《くくりつ》けられているところを見れば、憐みの起るは人の情でしょう。しかし、ゆうべの書記の話を思出すと、線路番人のことが眼前《めのまえ》に活きて来て、譬えようもない嫉妬《しっと》が湧上る。源は藁草履と言われる程の醜男子《ぶおとこ》ですから、一通りの焼手《やきて》ではないのです。編笠越しに秋の光のさし入ったお隅の横顔を見れば、見るほど嫉妬は憐みよりも強くなるばかりでした。
「お隅、お前は何をそんなに考えているんだい」
「何も考えておりゃせんよ」
「定めしお前は己を恨んでいるだろう。己に言わせると、こっちからお前を恨むことがある」
「何を私は貴方に恨まれることが有りやすえ」
と突込むように言われて、源はもう憤然《むっ》とする。さすがにそれとは言|淀《よど》んで、すこし口唇を震わせておりましたが、やがて石の上に腰を掛けて、草鞋の紐《ひも》を結直しながら、書記から聞いた一伍一什《いちぶしじゅう》を話し出した。こう打開《ぶちま》けて罪人の旧悪を言立てるような調子に出られては、お隅も平気でいられません。見る見るお隅の顔色が変って来て、「線路の番人」と図星を指《さ》された時は、耳の根元から襟首《えりくび》までも真紅にしました。邪推深い目付で窺《うかが》い澄していた源のことですから、お隅の顔の紅くなったのが読めすぎる位読めて、もう嫉《ねたま》しいで胸一ぱいになる。
しばらく二人は無言でした。
「貴方もあんまりだ」
とお隅は潤み声でいう。源は怒を帯びた鋭い調子で、
「何があんまりだよ」
「だって、あんまりじゃごわせんか。誰から聞きなすったか知りゃせんが、今更そんな件《こと》を持出して私を責めたって……」とお隅はさもさも儚《はかな》いという目付で、深い歎息《ためいき》を吐《つ》いて、「それを根に持って、貴方は私《わし》をこんなに打《ぶち》なすったのですかい」
「あたりめえよ」
お隅は顔を外向《そむ》けて、嗚咽《すすりあげ》ました。一旦|愈《なお》りかかった胸の傷口が復た破れて、烈しく出血するとはこの思いです。残酷な一生の記憶《おもいで》は蛇のように蘇生《いきかえ》りました。瞑《つぶ》った目蓋《まぶた》からは、熱い涙が絶間《とめど》もなく流出《ながれだ》して、頬を伝って落ちましたのです。馬は繋がれたまま、白樺《しらはり》の根元にある笹の葉を食っていたのですが、急に首を揚げて聞耳を立てました。向の楢林《ならばやし》――山梨の農夫が秣を刈集めている官有地の方角から、牝馬の嘶《いなな》く声が聞えて来る。やがて源の馬は胴震いして、鼻をうごめかして、勇しそうに嘶きました。一段の媚《こび》を含んだような牝馬の声が復た聞える。源の馬は夢中になって嘶きかわした。昨日から今日へかけて主人に小衝き廻されたことは一通りで無いのですもの、人間の残酷な叱※[#「※」は「口へん+它」、99−1]《しった》と、牝馬の恋の嘶きと、どちらがこの馬の耳には音楽のように聞えたか――言うまでもない。牝馬は、また、誘うような、思わせ振な声で――こういう時の役に立てねば外に役に立てる時は無いといいたい調子で、嘶きながら肥った灰色の姿を見せました。声を聞いたばかりでも、源の馬はさも恋しそうに眺め入っていたのですか
前へ
次へ
全14ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング