つぎの名人が有るということだによって、明日はなんでも其処へお隅を遣《や》ることだ、と言ってなさる。なあ、お前も明日の朝は暗え中に起きて、お隅を馬に乗せて、村の人の寝ている中に出掛けて行きなされ」
 こういう話をして、家へ帰って見ますと、お隅も寝入った様子。母親《おふくろ》は源を休ませて置いて、炉辺で握飯をこしらえました。父親も不幸な悴《せがれ》の為に明日履く草鞋《わらじ》を作りながら、深更《おそく》まで二人で起きていたのです。度を過した疲労の為に、源もおちおち寝られません。枕許の畳を盗むように通る鼠の足音まで恐しくなって、首を持上げて見る度に、赤々と炉に燃上る楢の火炎《ほのお》は煤けた壁に映っておりました。源は心《しん》が疲れていながら、それで目は物を見つめているという風で、とても眠が眠じゃない――少許《すこし》とろとろしたかと思うと、復た恐しい夢が掴みかかる。
 夜中にすこし時雨《しぐれ》ました。
 源は暁前《よあけまえ》に起されて、馬小屋へ仕度に参りましたが、馬はさすがに昨日の残酷な目を忘れません。蚊《か》の声のする暗い隅の方へとかく逡巡《しりごみ》ばかりして、いつもの元気もなく出渋るやつを、無理無体に外へ引出しました。お隅の萎れた身体は鞍《くら》の上に乗せ、足は動かさないように聢《しっか》と馬の胴へ括付《くくりつ》けました。母親《おふくろ》は油火《カンテラ》を突付けて見せる――お隅は編笠、源は頬冠《ほっかぶ》りです。坂の上り口まで父親に送られて、出ました。
 夜はまだ明放れません。鶏の鳴きかわす声が遠近《あちこち》の霧の中に聞える。坂を越して野辺山が原まで出てまいりますと、霧の群は行先《ゆくて》に集って、足元も仄暗《ほのぐら》い。取壊《とりくず》さずにある御仮屋《おかりや》も潜み、厩《うまや》も隠れ、鼻の先の松は遠い影のように沈みました。昨日の今日でしょう、原の上の有様は、よくも目に見えないで、見えるよりかも反って思出の種です。夫婦の進んでまいりましたのは原の中の一筋道――甲州へ通う旧道でした。二人は残夢もまだ覚めきらないという風で、温い霧の中をとぼとぼと辿《たど》りました。
 高原の上に寂しい生活を送る小な村落は、旧道に添いまして、一里置位に有るのです。やがて取付《とっつき》の板橋村近く参りますと、道路も明くなって、ところどころ灰紫色《はいむらさき》の空が見えるようになりました。
 こうして馬の口を取って、歩いて行くことは、源にとりまして言うに言われぬ苦痛です。源も万更《まんざら》憐《あわれ》みを知らん男でもない。いや、大知りで、随分|落魄《おちぶ》れた友人を助けたことも有るし、難渋した旅人に恵んでやった例もある。もし、外の女が災難で怪我でもして、平沢へ遣らんけりゃ助からない、誰か馬を引いて行ってくれるものは無いか、とでも言おうものなら、それこそ源は真先に飛出して、一肌ぬいで遣りかねない。人が褒めそやすなら源は火の中へでも飛込んで見せる。それだのに悩み萎れた自分の妻を馬に乗せて出掛るとなると、さあ、重荷を負《しょ》ったような苦痛《くるしみ》ばかりしか感じません。もうもう腹立しくもなるのでした。
 それ、そういう男です。高慢な心の悲しさには、「自分が悪かった」と思いたくない。死んでも後悔はしたくない。女房の前に首を垂《さげ》て、罪過《あやまち》を謝《わび》るなぞは猶々出来ない。なんとか言訳を探出して、心の中の恐怖《おそれ》を取消したい。と思迷って、何故、お隅を打ったのかそれが自分にも分らなくなる。「痴《たわけ》め」と源は自分で自分を叱って、「成程、打ったのは己が打った、女房の命は亭主の命、女房の身体は亭主の身体だ。己のものを打ったからとて、何の不思議はねえ」弁解《いいほど》いて見る。思乱れてはさまざまです。源の心は明くなったり、暗くなったりしました。
 馬は取付く虻《あぶ》を尻尾で払いながら、道を進んでまいりましたが、時々眼を潤ませては、立止りました。神経の鋭いものだけに、主人を懐しむことも恐れることも酷《はげ》しいものと見え、すこし主人に残酷な様子が顕れると、もう腰骨《こしぼね》を隆《たか》くして前へ進みかねる。
「そら牛馬《うしうま》め」
 と源は怒気を含んで、烈しく手綱を引廻す。「意地が悪くて、遅いから、牛馬だ。そら、この牛め」
 馬は片意地な性質を顕して、猶々出足が渋ってくる。
「やい戯※[#「※」は「ごんべん+虚」、93−9]《じょうだん》じゃねえぞ。余程《よっぽど》、この馬は与太馬(駑馬《どば》)だいなあ。こんな使いにくい畜生もありゃあしねえ」
 長い手綱を手頃に引手繰《ひきたぐ》って、馬の右の股《もも》を打つ。
「しッ、しッ、そら、おじいさん」
 馬は渋々ながら出掛けるのでした。
 晴れて行く高原の霧のなが
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