い秋の空気を吸うと、もう蘇生《いきかえ》ったようになりましたのです。高原の朝風はどの位|心地《こころもち》のよいものでしょう。源は直にゆうべの疲労《つかれ》を回復《とりかえ》して了いました。それに、人の気を悪くするような誇張《みてくれ》をやりたがるのが、この男の性分で、そこここと馬を引廻して、碌々《ろくろく》観相《みよう》も弁《わきま》えない者が「そいッたっても、まあ良い馬だいなあ」とでも褒《ほ》めようものなら、それこそ源は人を見下げた目付をして、肩を動《ゆす》って歩く。ところへ、馬喰の言草があれでしょう――源が微笑《にっこり》する訳なんです。
 殿下の行啓と聞いて、四千人余の男女《おとこおんな》が野辺山が原に集りました。馬も三百頭ではききますまい。それは源が生れて始めての壮観《ながめ》です。御仮屋《おかりや》は新しい平張《ひらばり》で、正面に紫の幕、緑の机掛、うしろは白い幕を引廻し、特別席につづいて北向に厩《うまや》、南が馬場でした。川上道《かわかみみち》の尽きて原へ出るところに、松の樹蔭から白く煙の上るのは商人《あきんど》が巣を作ったので、そこでは山|葡萄《ぶどう》、柿などの店を出しておりました。中には玉蜀黍《とうもろこし》を焼いて出すもあり、握飯の菜には昆布《こぶ》に鮒《ふな》の煮付を突出《つきだし》に載せて売りました。
 源の功名を貪《むさぼ》る情熱は群集の多くなるにつれて、胸中に燃上りましたのです。源の馬というのは「アルゼリィ」の血を享《う》けた雑種の一つで、高く首を揚げながら眼前《めのまえ》に人馬の群の往ったり来たりするのを眺《なが》めると、さあ、多年の間潜んでいた戦好《いくさずき》な本性を顕《あらわ》して来ました。頻《しきり》と耳を振って、露深い秋草を踏散して、嘶《いなな》く声の男らしさ。私《ひそか》に勝利を願うかのよう。清仏《しんふつ》戦争に砲烟《ほうえん》弾雨の間を駆廻った祖《おや》の血潮は、たしかにこの馬の胸を流れておりました。その日に限っては、主人の源ですら御しきれません――ところどころの松蔭に集る娘の群、紫絹の美しい深張《ふかばり》を翳《さ》した女連なぞは、叫んで逃げ廻りました。
 急に花火の音がする。それは海の口村で殿下の御着《おちゃく》を報せるのでした。物売る店の辺《あたり》から岡つづきの谷の人は北をさして走ってまいります。川上から来た小
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