なりやすよ。馬流《まながし》の正公《しょうこう》は私よりか前に奉職して、それで私と給料が同じだもんだで、大層口惜しがってね。此頃《こないだ》も、馬流へ行った時、正公のところへ寄って、正公ちったあ上げて貰いやしたかね、と聞いたら、弱ったよ、今月は五十銭も上るかと思ったに、この模様ではお流れだ、と言って嘆《こぼ》していやした」
「どうでごわしょう、先生、その女も足の骨を折られた位で……」
「しかし、人間は信用がなくちゃ駄目だね。私なんかのように貧乏人で、能の無い者でも、難有《ありがた》いことには皆さんが贔顧《ひいき》にしてくれてね。此頃《こないだ》も斎藤書記官に逢いやした時、お前《めえ》は今いくら取る、と言いやすから、九円になりやしたと言うと、九円? 九円も取るか、と大層喜んでくれやして、九円取れればいいだろう、と言いやすのさ。そりゃ私|独《ひと》りなら楽ですけれど、家内が大勢でなかなかやりきれやせん、と言いやしたら、よしよしその中に又た乃公《おれ》が骨を折って上るようにしてやる、と言ってくれやした」
「どうでごわしょう、先生、その女も……」
「噫《ああ》。貧苦ほど痛いものは無いね。貧苦、貧苦、子供は七人もあるし、家内には亡くなられるし――加《おまけ》に子供は与太野郎(愚物)ばかりで……。なあ、君、私もこんなに貧乏していて、それで酒ばかりは止められない。この楽みがあればこそ活きてる。察してくれ給え、酒でも飲まなけりゃいられんじゃないか」
「どうでごわしょう、先生……」
「地方裁判所なんとなると、どうもさすがに違ったものだね。君、『テエブル』が一畳敷もあろうかと思われる位大きくて、その上には青い織物《きれ》が掛けてもあるし、肘突《ひじつき》なんかもあるし、腰掛には空気枕のようなやつが付いてて、所長の留守に一寸乗って見ると――ぷくぷくしていて、工合のいいことと言ったら。君、そうして廷丁が三人も居るんだよ。それで呼鈴《よびりん》と言うので、ちりりんと拈《ひね》ると、そのまあ、ちり、ちり、ちりん、の工合で誰ということが分ると見えて、その人がやって来ますね。大したものですなあ」
すこし話が途切れました。月のさした窓の外に蟋蟀《こおろぎ》の鳴く声が聞える。蛾《が》の大なのが家《うち》の内へ舞込んで来て、暗い洋燈《ランプ》の周囲《まわり》を飛んでおりましたが、やがて炉辺へ落ちて羽を
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