衆ばかりかと思ったら――御生憎《おあいにく》さま」
 と、炉辺で男の笑声が起る。源も苦笑《にがわらい》しながら入りました。
「かみさん、酒を一杯おくれや」
 鹿の湯というのは海の口村の出はずれにある一軒家、樵夫《きこり》の為に村醪《じざけ》も暖めれば、百姓の為に干魚《ひうお》も炙《あぶ》るという、山間《やまあい》の温泉宿です。女亭主《かみさん》は蓬《ほう》けた髪を櫛巻《くしまき》で、明窓《あかりまど》から夕日を受けた流許《ながしもと》に、かちゃかちゃと皿を鳴して立働く。炉辺には、源より先に御輿《みこし》を据えて、ちびりちびり飲んでいる客がある。二階には兵士の客もある様子。炉に懸けた泥鰌汁《どじょうじる》の大鍋《おおなべ》からは盛に湯気が起《た》ちまして、そこに胡座《あぐら》をかいた源の顔へ香《にお》いかかるのでした。筒袖《つつそで》の半天を着た赤ら顔の娘は、梯子段《はしごだん》を上ったり下りたりして、酒を運んでおりましたが、やがて炉辺へやってきて、塗箸《ぬりばし》を添えた胡栗脚《くるみあし》の膳《ぜん》に香の物と猪口《ちょく》を載せて出し、丼《どんぶり》には汁をつけてくれる。
「さあ、御燗《おかん》がつきやした」
 と時代な徳利を布巾《ふきん》で持添えて、勧めた。源は熱燗の極《ごく》というところを猪口にうけて、
「お前《めえ》の御酌だと、同じ酒が余計に甘く飲めるというもんだ」
「まあ、源さの巧く言うこと」
「どうだい、私の女房になる気はねえかよ」
「戯語《じょうだん》ばかりお言いでない」
 客も黙ってはいられません。黒々と生延《はえの》びた腮《あご》の鬚《ひげ》を撫廻しながら、
「とかく、若い方の傍へは寄りたいものと見えるね」
 と、ちらちらした目付で、娘を嬲《なぶ》りにかかる。娘はすこし憤然《むっ》として見せて、
「この御客さんも、これでなかなか学者だぞい」
「へへへへ」と客はいやに笑って、「これでとは何だよ。人間も朝から晩まで稼《かせ》ぐばかりじゃ、ねっからつまりませんや。ちったあ自分の好自由になる時がなくちゃ」
「貴方《あんた》、好事《いいこと》を教えて上る」と娘は乗出して、「明日はゆっくりお勝さんの許《とこ》へ行って、一緒に小屋の内で本でも読みやれ」
「へへへへ、明日は日曜だ。日本外史でも読まずかと思って」
「先生は何方《どちら》ですい」と源は尋ねて見ました
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