は人を分けて特別席の幕外へ出ました。殿下はまた熱心に馬を見給う御様子。参事官なぞは最早《もう》飽果てて、八つが岳の裾に展がる西原の牧場を望んでおりました。源は御茶番の側を通りぬけて、秣小屋《まぐさごや》の蔭まで参りますと、そこには男女《おとこおんな》の群の中に、母親、叔母、外に身内の者も居る。源の若い妻――お隅も草を藉《し》いて。
「よっぽど良い馬が来た」
 と源は佇立《たたず》みながら独語《ひとりごと》のように。叔母は振り返って、
「道理だぞよ。そいッたってもなあ」
「叔母さん、宮様を拝まッしたか」
「私《わし》はなあ、橋の傍で拝みやした」
 母親《おふくろ》は源の横顔を熟視《みまも》って、
「源、お前《めえ》も握飯《むすび》はどうだい。たべろよ。沢山《たんと》あって残っても困るに」
「ああ」と源は夢中の返事、胸の中には勝負のことが往ったり来たりするばかり。名誉心の為に駆られて、饑渇《うえかわ》いて、唯もうそわそわとしておりました。
「これさ。たべろよ」
 という母親《おふくろ》の言葉に、お隅は握飯《むすび》を取って、源の手に握らせました。源は夢中で、一口それを頬張って、ぷいと厩の方へ駆出して行って了いました。
 御茶番から羽織|袴《はかま》で出て来た赤ら顔の農夫は源の父《おやじ》です。そこここと見廻して、
「源は来やせんか」と母親《おふくろ》に皺枯声《しゃがれごえ》で尋ねる。
「今、爰《ここ》に居たが、どこかへ駆走《とっぱし》っちゃった」
「彼奴《あいつ》にも困っちまう。今日は恰《まる》で狂人《きちがい》みたよう。私《わし》が、宮様へ上《あげ》る玉露の御相伴をさしたい、御茶菓子の麦落雁《むぎらくがん》も頂かせたい、と思って先刻《さっき》から探しているんだけど」
 叔母は引取って、
「源さの大《いか》くなったには、私《わし》魂消《たまげ》た。全然《まるで》、見違えるように。しかし、お前《めえ》には少許《ちっと》も肖《に》ていねえだに」
「私《わし》にかえ。彼奴は私に肖ねえで、亡くなった祖父《じじい》に肖《に》たと見える。私は彼奴を見ると、祖父を思出さずにはおられやせん」
 と楽しそうに話しておりますと「ファラリイス」の駒も大概《あらかた》御覧済になりましたので、御仮屋の北側に記念の小松を植えさせられました。人々は倦《う》んで了《しま》って、特別席にかしこまる官吏の
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