へ飛び降りることが出來たのです。朝に晩に大人に見つからないやうにしてはよく登りましたが、ある時私の手が滑つて堅い階段のところでひどく背骨を打つたことがありました。しばらくの間私は身動きすることも出來ませんでした。これに懲りて次第にその遊戲も止めるやうに成つて行きました。
 もつと危い遊戲を考へ出したこともあります。それは土藏の二階へ昇る梯子が二段に成つて居た爲に、私は下から逆さに昇つて行くことを企てたのです。これは梯子が足を掛け易く出來て居たからでもありました。しかし斯の危い戲れよりも安全で、もつと少年の私の心を喜ばせたのは、低い梯子から高い梯子へ昇らうとする中途の袋戸棚の上から、逆《さかさ》にでんぐり返しを打つことでした。ある日も人の居ない時を見て、袋戸棚の上へ身體を寢かし、足の方から段々高く持ち上げて見事に疊の上へ立つたと思ひましたら、そこに豐田の小父さんが笑ひながら立つて見て居て、ひどく私は赤面したことが有りました。
 山家育ちの私は、時には小父さんから、叱られるやうな惡戲をもやりました。ある時私は手頃な小刀を得ました。國に居れば鉈《なた》や鎌で立木の枝を拂つたり皮を剥いたりしたやうに、私は唯譯もなくその小刀を試みたくて成りませんでした。で、入口の格子の中に閉める戸へ行つてそれを試みました。大きなフシ穴を一つ刳《く》り拔いて了つた頃に、小父さんが來て見て呆れまして、
『貴樣はもつと悧好《りかう》な奴だと思つたら、存外馬鹿だナ。』
 と言つて叱られました。斯ういふ惡戲をした時でも、小父さんは實に寛大で、私に好く言つて聞かせるだけでした。私は斯の善良な主人から手荒い目などには一度も逢つたことが有りません。それだけ又た少年の心にも深く斯の小父さんを尊敬しました。
 ある日、私は表の方から馳出《かけだ》して來まして、格子を開けて上らうとする拍子に上《あが》り框《がまち》に激しく躓きました。私の身體は飛んで玄關に轉げました。
『馬鹿め、上から下へ轉がり落ちるつてことは有るが、下から上へ轉がり落ちる奴が有るかい。』
 斯う言つて、小父さんは笑ふやうな人でした。
 斯の小父さんは手細工が好きで、銀座の夜店から鋸《のこぎり》、鉋《かんな》の類を買つて來まして閑暇《ひま》な時には種々な物を手造りにしました。大工の用ひるやうな道具箱までも具へて有りました。小父さんの器用なことは天性で、左樣いふ道具を使つて餘念もなく箱を組立てたり板を削つたりする間がまた小父さんの一番樂しみな心の落ち着く時のやうに見えました。私は小父さんから厚い木の片で『コンパス』の入物を造つて貰つたことも有ります。
 奧座敷の縁先にはタヽキの池が有りました。そこには澤山金魚が飼つて有りまして、姉さんも氣分の好い時にはその縁先に出て、長い優美な尻尾を引きながら青い藻の中に見え隱れする魚のさまなどを眺めては病を慰めたものでした。小父さんは好く身體の動く人でしたから、その池に臭い泥でも溜ると、一番先きに立つて水を替へたり掃除をしたりしました。左樣いふ時には私も小父さんの手傳ひで手桶に半分ばかり入れた水を裏の井戸から池の方へ運ぶことが出來るやうに成りました。
 家の裏は丁度銀座通の裏側にあたる路地でした。もし私が父に勸められたやうに畫家にでも成つて居たら、彼樣いふ路地を畫いたらうと思ふほどゴチヤ/\した面白味のあるところでした。家々の下婢《をんな》が水汲みに集るのもそこでしたし、番頭や職人などが朝晩に通ふのもそこでしたし、豐田さんの家の裏には小屋なども造りつけて有りまして時々薪を割る音のするのもそこでした。まるで私は小鳥かなんどのやうに、唯譯もなくその間を歩き※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りました。時には路地の奧の方までも入つて行つて、活版屋の裏に堆高《うづだか》く積重ねてある屑の中から細い活字を拾ふのを樂しみにしました。丁度私が國に居た頃、榎《えのき》の實を拾ひに行つて其下に落ちて居た橿鳥《かしどり》の羽を見つけたやうに。
 話はいろ/\に飛びますが、こゝで私は子供と着物のことをすこし書きつけたいと思ひます。少年時代の神經質は妙に着物などにも表はれると思ひます。私はどつちかと言へば頓着しない方で、着ろと言はれる物を着て學校へ通ひました。羽織や袴がすこしぐらゐ汚れても着慣れた物でさへあれば滿足しました。豐田のお婆さんは私の學校の方の成績を褒めまして、ある時私のために黒ずんだ黄八丈の羽織を仕立て直して呉れました。それは國の方に居る母が手織にした物でした。私が持つて居る羽織では上等の物でした。ところが黄八丈などを着て學校の式に出る友達は一人も居ません。私はそれを思ふと、何となく人に嘲戲《からか》はれさうな氣がして、氣羞かしくて堪りませんでした。お婆さんはわざ/\式に間に合はせる積りで夜業《よなべ》までして仕立て直して呉れたのでしたが、到頭私は強情を言ひ張つて、その羽織を着るだけは許して貰つたことが有りました。
 父が私に逢ふのを樂みにして一度上京しましたことは、私に取つて忘れ難いことの一つです。何故かと言ひますに、それぎり私は父に逢ひませんから。
 豐田さんの家の奧の二階は廣い靜かな座敷で、そこに父は旅の毛布《ケツト》やら荷物やらを解き、暫時《しばらく》逗留しました。豐田のお婆さんの亡くなつた連合《つれあひ》だの、親戚にあたる年老いた漢學者だの、其他豐田さんの身のまはりの人で父の懇意な人は澤山ありまして、國に居る頃は父もまだ昔風に髮を束ねまして、それを紫の紐で結んで後の方へ垂れて居るやうな人でしたが、その旅で名古屋へ來て始めて散髮に成つた話などを私に聞かせました。私は心の中で、お父さんも大分開けて來たと思ひました。
『あれは彼樣《あゝ》と、これは斯樣《かう》と――』
 そんなことを父はよく獨語《ひとりごと》のやうに言つて、自分の考へを纏めやうとするのが癖でした。
 奧の二階からは廣い物乾場を通して町家の屋根、窓などが見られます。父は旅の包の中から桐の箱に入つた鏡を取出しましたから、
『お父さん、男が鏡を見るんですか。』
 と私が尋ねますと、父は微笑んで、鏡といふものは男にも大切だ、殊に斯うして旅にでも來た時は、自分の容姿《ようす》を正しくしなければ成らないと私に話しました。
 父は隨分奇行に富んだ人で、到るところに逸話を殘しましたが、しかし子としての私の眼には面白いといふよりも氣の毒で、異常なといふよりも突飛に映りました。斯の上京で私はそれを感じたのでした。私の學校友達の六ちやんの家へも父が訪ねて行かうと言ひますから、私は一方には嬉しく思ひながら、一方には復た下手なことをして呉れなければ可いがと唯そればかり心配して、三十間堀の友達の家へ案内して行きました。六ちやんの家ではお母さんが後家さんで六ちやん達を育てゝ居ました。訪ねて行くと、先方《さき》でも大層喜んで呉れましたが、別れ際に父は六ちやんのお母さんからお盆を借りまして、土産がはりに持つて行つた大きな蜜柑をその上に載せました。やがてツカ/\と立つて、その蜜柑を佛壇へ供へたといふものです。斯ういふ父の行ひが少年の私には唯奇異に思はれました。私は父の精神の美しいとか正直なとかを考へる餘裕はありませんでした。何でも早く六ちやんの家を辭して豐田さんの方へ父を連れて歸りたいと思ひました。
 父は私の通ふ學校を見たいと言ひますから、數寄屋河岸の方へも案内しまして赤煉瓦の建物を見せました。河岸に石の轉がつたのが有りましたら、子供の通ふ路に斯ういふ石は危いと言つて、父はそれを往來の片隅に寄せたり、お堀の中へ捨たりするやうな人でした。
 父が逗留の間に舊尾州公の邸をも訪ねました。その時、私も父に伴はれて、以前の尾張の殿樣といふ人の前に出ました。父は私が學校で作つた鉛筆畫の裏に私の名前などを書いたものを尾州公の前に差出しました。私は廣い御座敷に身を置いて燈火《あかり》の影で大人の話をするのを聞いたのと、歸りに御菓子を頂いて來たのとその他に今記憶して居ることも有りません。父は又淺草邊の鹿《か》の子《こ》といふ飮食店へも私を連れて行つて、そこの主人《あるじ》や内儀《かみ》さんに私を引合せました。
『斯樣なお子さんが御有りなさるの。』と内儀さんは愛相よく言つて、父と私の顏を見比べました。私は内儀さんばかりでなく多勢の女中からジロ/\傍へ來て顏を見られるのが厭でした。鹿の子の主人は地方出で、父とは懇意な人でした。
 その時の私の心では、私は矢張郷里の山村の方に父を置いて考へたいと思ひました。私は一日も早く父が東京を引揚げて、あの年中|榾火《ほたび》の燃えて居る爐邊の方へ歸つて行つて、老祖母《おばあ》さんやお母《つか》さんや、兄夫婦や、それから太助などと一緒に居て貰ひたいと思ひました。久し振の上京で、父は東京にある舊い知人を訪ねたり、亡くなつた人の御墓參をしたりしまして、間もなく郷里の方へ戻つて行きましたが、後で國から出て來た人の話には、餘程私が嬉しがるかと思つて上京したのに、子供には失望したと言つて、父が郷里へ戻つてから嘆息して他《ひと》に話しましたとか。斯の手紙で私が今貴女に御話して居るのは、銀座の大倉組の角に點《つ》いた白い強い電燈の光が東京の人の眼に珍しく映つた頃のことです。尾張町の角にあつた日々新聞社の前に花瓦斯《はなガス》の點く晩などは、私は豐田さんの家の人達に隨いて、明るい夜の銀座通を歩きに行きましたものです。

        九

 豐田さんの家で可愛らしい赤兒《あかんぼ》が生れるまでは、私は土藏の中の部屋でお婆さんの側に寢かされましたが、赤兒が生れてからはお婆さんの代りに下婢《をんな》が土藏の方へ來て寢ることに成りました。とても子供があるまいと言はれて居た豐田の小母さんは男の兒が生れたので、急に家の内の光景《さま》が變つて賑かに成つて來ました。それにしても下婢と同じ部屋に私を寢かして可からうか、と注意深いお婆さんがそれを言ふと、
『お婆さん――あんな子供ぢや有りませんか。』
 と小父さんが笑ひました。
 私は奧の部屋の炬燵にあたりながら、眠たい耳に斯の話を聞いて居ました。小父さんの言ふ通り、私はまだ子供でした。でもお婆さん達の話が分らないほどの子供では有りませんでした。
 こゝまで書きつけて來ますと、豐田さんの家へ來て奉公して居た種々な下婢が私の眼に浮びます。あるものは目見えに來たかと思ふと直に暇を取つて行つたのもありましたし、あるものは又隨分長いこと好く勤めたのもありました。左樣いふ下婢と私との隔りは最早あのお霜と私との隔りでは無くなつて來ました。私には無智な彼等の言ふことや爲ることが分つて來ました。私が玄關の小部屋に机を控へて勉強して居りますと、彼等の一人が主人の子供を抱いて來て、窓の外を見せながらよく當時の流行唄《はやりうた》を歌ひました。そんな唄を歌つて居ることが奧へ知れようものなら、直に御目玉を頂戴するほど豐田さんの家では嚴しかつたものですから、それを主人に聞えないやうに、窓のところへ來ては歌ひましたのです。
 私は誘惑され易い年頃になりました。もし私に性來の臆病と、一種の自尊心とが無かつたら、早く私は少年らしい好奇心の捕虜《とりこ》と成つたかも知れません。で、私は下婢が傍へ來て樂しさうに歌ふみだらな流行唄などに耳を傾て、氣は浮々とさせることを感じながら、一方には左樣いふ女と碌に口も利かないほど彼等を憎み蔑視《さげす》むやうな心を持つて居ました。
 私がよく行く窓の外には種々雜多なものが通りました。一頃|流行《はや》つたパン屋が太鼓を叩いて來ますと、奧の方に居る小母さん達までその音を聞きつけて、往來の見える窓側の鐵の格子から眺めました。
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『パン屋のパン、
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木村屋のパン――』
[#ここで字下げ終わり]
 風變りなパン屋夫婦の洋裝、太鼓や三味線の音などは人の氣を浮き立たせました。あのパン屋はもとは相應な官吏であつたとか、細君はそれ者《しや》の果だとか、ど
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