した。甥は私よりは三つも下の少年でしたが、謠曲《うたひ》の文句などを諳記して居て、斯の祖母さんの側でよく歌ひました。
 二階座敷で時折樂しい酒宴《さかもり》のあつたことも、客を款待《もてな》すことの好きな姉の夫の氣風をあらはして居りました。同じ銀座の町の近くには、矢張同郷の豐田さんといふ人が住んで居て、折につけて呼ばれて來ました。その使に行くのが何時でも私でした。ゆつくり酒を酌みかはすといふ夜などは、豐田さんは興に乘つて歌ひ出すことが有りました。いかめしい顏附に似合はない豐田さんの洒落《しやれ》は皆なを笑はせました。姉の夫も清《すゞ》しい好い音聲で故郷の方の俗謠などを歌ひましたが、その聲には私は聞き恍《ほ》れる位でした。
 斯うして寛濶な家庭の中でも、姉は物のキマリの好いことを悦んでそれを私に話して聞かせたものです。例へば、日曜毎に訪ねて來る同郷の青年があるとか、その青年が甥のところへ買つて持つて來るものは鹽煎餅と定つて居るとか、それを缺かしたことが無いとか、そんなことまで姉の心を悦ばせました。
 銀さんと私とは姉の家から同じ小學校へ通ひましたが一年ばかり經つ間《うち》に銀さんの方は學校を退《ひ》いて了《しまひ》ました。銀さんは學問よりも商業で身を立てるやうにと姉夫婦から説き勸められて、日本橋のある紙問屋へ奉公に行くことに成りました。國から二番目の兄に養父が上京した節、銀さんも御店《おたな》の方から暇を貰つて逢ひに來たことが有りました。その時は皆な揃つて記念の寫眞を撮りました。その中で銀さん一人は商人らしい前垂掛で撮れて居ます。
 姉が年寄から子供まで連れて夫と一緒に歸國する前には、種々なことが有りました。ある日、私は姉に言ひ附けられて、今迄行つたことの無い家へ使に出掛けたことを覺えて居ます。姉は祖母さんに内證で、箪笥の中から自分の着物を取出して風呂敷包にして私に背負はせました。私の行つた先は店頭《みせさき》に暗い暖簾《のれん》の掛つた家です。番頭が居まして、私が背負つて行つた着物を一枚々々ひろげて見て、通ひ帳の中へ御金を入れて私に渡しました。私は子供心にもいくらか斯の意味を悟りました。姉のところへ引返してから、斯ういふ使はもう御免だと言つて、姉を笑はせたことが有りました。さういふ中でも、姉は祖母さんの膳にだけ新しいオサシミをつけました。祖母さんの好きな物は何よりオサシミでしたから……
 姉と一緒に居た間、私は殆んど忿怒《いかり》といふものも知らなかつたほど自分の少年らしい性質が延びて行つたことを感じます。甥の下にはまだ頑是《ぐわんぜ》ない年頃の姪が一人ありました。その姪は姉が東京に家を持つてから生れた子供です。あの日、私が學校から歸つて來て自分の机のところへ行つて見ますと大事に/\して置いた新しい洋綴の帳面には目茶苦茶に何か書き散してありました。斯の亂暴な行ひは直に小さな姪のいたづらと知れましたが、そのために自分の忿怒《いかり》を奈何《どう》することも出來ませんでした。私はその帳面を引裂いて了ひました。口惜しかつたと思つたことは、その時ぐらゐのものです。一體に姉は清潔好《きれいず》きでしたから、私は姉を悦ばせようと思つて表や庭の掃除をよくやりました。ある時、二階の硝子窓の外にある露臺へ夏の雨が來ました。私はその雨降の中へ出て、汚れたトタンの上を洗つて、姉を悦ばせたことも有りました。どうかすると姉は夫や子供と共に寢室を離れないで居る朝などには、早起の祖母さんが階下《した》でブツ/\言ひます。さういふ時に、姉を呼び起しに行くのは私の役※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りでした。
 姉の家族が故郷へ向けて出發した日のことは、まだいくらか私の眼にあります。白い髮の祖母さんから、子供まで、皆な國まで買切の人力車《くるま》に乘つて出掛けました。姉の居た家には鷲津さんが入ることに成りました。で、私は親身の姉の手から『鷲津の姉さん』と呼ぶ人の手に渡されたのです。
 鷲津さんの家族はたつた親子二人ぎりでした。禿頭に細いチヨン髷を結つて居た老爺《おぢい》さんと、その娘にあたる獨身の姉さんと。斯の老爺さんは私達の隣國の舊藩士で、過去つた時代には相應の高い地位に居たとやら。多藝な人で、和歌の添削などをするかたはら、その家へ移つて來てからは碁會所の看板を掛けました。鷲津の姉さんはまた女でも可成に碁の打てる人でしたから、部屋々々に毛氈《まうせん》などを敷き、重い碁盤を置き、客が來ればその相手に成りました。
 一人東京に殘されました少年の私の身に取つては、斯の同じ家の内が全く別の世界のやうに成りました。姉は私のことを鷲津さんによく頼んで置いて歸つて行つたのですが、最早私の周圍には以前のやうな注意を拂つて呉れる人は居りませんでした。私はそれを感じました。のみならず、私は周圍の冷淡な人達に對して自分の少年らしい感情を隱すやうに成りました。たま/\學校から歸つて來て見ると、老爺さんは鏡に向つて眉間《みけん》の瘤《こぶ》を氣にして居ます。なんでも其瘤は非常に大きなニキビの塊だといふことでした。どうして、年は取つてもなか/\の洒落ものでしたから、到頭老爺さんは剃刀を取出して、自分でそのニキビの塊を切りました。そんなことを見る度に、私は斯の年甲斐のない老人に對してさげすみの念を抱きました。
 斯ういふ家庭の空氣でしたから、自然と私の心は屋外《そと》の方へ向ひました。私も早や東京へ出たての時のやうに髮などを長く垂れ下げて、黄八丈の羽織をヨソイキに着るやうな少年ではありませんでした。毎朝數寄屋河岸へ通ふ途中で一緒に成る男や女の學校友達の顏は、私には親しいものと成つて來ました。その頃普通教育は男も女も合併の時分で、私は一方に炭屋の子息《むすこ》さんと席を並べ、一方には時計屋の娘やある官吏の娘などと並んで腰掛けました。斯の官吏の娘の家は私達が住むと同じ町の並びにありました。姉妹《きやうだい》で學校へ通つて居ました。何がなしに私はその家の前を通るのを樂みにして、私が居る家と同じ型の圓柱、同じ型の窓を望んでは、そこに同級の女の友達が住むことを懷しみました。その頃は又、學級の編成の都合かして、生徒を上の組へ飛ばせるといふことが有りました。その時、私は炭屋の子息さんと時計屋の娘と三人で上の組に編《く》み入れられましたが、官吏の娘だけは元の組に殘りました。休みの時間に、時計屋の娘が先生の前に來て、自分一人昇級するのをブツ/\言ふものが有ると言つて、訴へたことを覺えて居ます。私は氣の昂《たかぶ》つた時計屋の娘よりも、シヨゲた官吏の娘の方を可哀さうだと思つたことも有りました。
 鷲津の姉さんは色の淺黒い、瘠ぎすな、男性的の婦人でそれに驚くほど氣の短い性質を有つて居ました。その性急《せつかち》なことは、鍋に仕掛けた芋でも人參でも十分煮えるのを待つて居られないといふ程でした。早く煮て、早く食つて、早く膳を片附けて了ひたい……それが姉さんの癖でしたから、私も學校の方へ氣が急《せ》かれる時などは、生煮《なまにえ》の物でも何でもサツサと掻込んで、成るべく早いことをやりました。それでも姉さんには急き立てられました。そんな風にして私は一年ばかりも斯の婦人に養はれましたが、二番目の兄が國から上京して斯のさまを見た時は、私のために心配し始めた位でした。鷲津の姉さんの早く、早くで、終《しまひ》には私は青く成つて了ひました。

        七

 私は極く早い頃から臆病な性質をあらはしました。銀さんは國に居る頃から私と違ひまして、木登りの惡戲《いたづら》から脚に大きな刺《とげ》などが差さつても親達に見つかる迄はそれを隱して居るといふ方でしたが、私は他《ひと》の身體の疼痛《いたみ》を想像するにも堪へませんでした。東京へ修業に出て來てからも、二番目の兄に連れられて寄席などへ遊びに行きますと、中入前あたりには妙に私は心細く成つて來るのが癖でした。斯の兄は其頃から度々上京しまして旅屋《やどや》に日を送りましたから、私もよく銀座邊の寄席へは連れられて行きましたが、騷がしい樂屋の鳴物だの役者の假白《こわいろ》だのを聞いて居ると、何時でも私は堪へ難いほどの不安な念に襲はれました。その度に、私は兄一人を殘して置いて、寄席から逃げて歸り/\しました。それほど私は臆病でした。
 一方から言へば私は八歳の昔に早や初戀を感じたほどの少年で(そのことは既に貴女に御話しましたが)、その私が鷲津の姉さんのやうな家庭の空氣の中に置かれて、種々な大人の淫蕩《みだら》を見たり聞いたりしながら、しかも少年らしい多くの誘惑から自分を護り得たといふのも、一つは斯の臆病からだと自分で思ひ當ることが有ります。
 二番目の兄は鷲津の姉さんの傍に長く私を置くことを好みませんでした。そこで私は姉や兄達の懇意な豐田さんの家の方へ引取られて、豐田さんの監督の下に勉強することに成つたのです。丁度それは私が十一の年の秋頃でした。
 貴女は十一二といふ年頃をお母さんの側で奈何《どん》な風に送つたでせうか。私は全く獨りで――母からも、姉からも離れて――早くから他人の中へ投げ出されたやうなものでした。それが私に取つての修業といふものでした。私はいかにせば、鷲津の姉さんのやうな性急で氣むづかしい人を喜ばすであらうかと、そんなことに心を碎きました。一旦|等閑《なほざり》にされた私は豐田さんの方へ引移つて、思はぬ深切と温い心とを見つけたのです。
 豐田さんと言へば、姉が東京に居ました時分にはよく私も使に行きましたからそこの細君や隱居さんは全く知らない顏でもありませんでした。姉の家から細い路地を曲つて行くと、鼈甲屋《べつかふや》、時計屋などのある銀座の裏通りの町、そこにある黒い土藏造りの豐田さんの家、鐵格子の箝《はま》つた窓などは、私には既に親しいものでした。私は豐田さんのことを小父さん、隱居さんのことをお婆さんと呼ぶやうに成りました。細君は本來なら小母さんと呼ぶべきでしたが、豐田さんとは大分年も違つて居ましたし、兄でも姉でも斯の人ばかりは豐田の姉さんと言ひましたから、私もそれに倣つて姉さんと呼びました。
 例の往來に面した鐵格子の箝つた窓――私に取つては忘れることの出來ない朝に晩に行つた窓――その窓の下にある三疊ばかりの小部屋に私は鷲津さんの家から運んで行つた自分の机を置きました。壁によせて、抽斗《ひきだし》の附いた本箱をも置きました。抽斗の中には上京の折に父が餞別に書いて呉れた座右の銘なぞが入れてあります。稀《たま》には私は幾枚かある其短册を取出して見ます。『温良恭謙讓』と一行に書いたのがあれば『勉強』とか『儉約』とかの文字をいくつも書き並べたのもあります。私は器械的に繰返して見て、寧ろ父の手蹟を見るといふだけに滿足して、復た紙に包んで元の抽斗の中へ藏つて置きました。國許の父からはよく便りがありました。父は村の中の眺望《ながめ》の好い位置を擇んで小さな別莊を造つたとかで、母と共に新築の家の方へ移つたことや、その建物から見える遠近《をちこち》の山々、谷、林のさまなどを書いて寄《よこ》しました。其頃から漸く私も父へ宛てゝ手紙を書くやうに成りました。時には豐田の小父さんがニコ/\しながら私の机の側へ來まして、
『お父さんの許《とこ》へ奈樣《どん》な手紙を書いたか、お見せ。そんなことを隱すもんぢや無い。』
 と言ひますから、私が學校の作文でも書くやうに半紙に書きつけた手紙を出して見せますと、小父さんは笑つて、それを奧の方に居るお婆さんや姉さんのところへ持つて行つて讀んで聞かせたりなどしました。『むう、斯の手紙はなか/\好く出來た』なんて小父さんは私を勵ました後で、是處は斯う書けとか、彼處は彼樣《あゝ》直せとか言つて呉れました。道さん――ホラ、お文さんの直ぐ上の兄さん――からもめづらしく便りがありました。私は窓の下にその幼友達の手紙を展げて、何度も/\繰返し讀みました。二年あまり半分夢中で都會に暮して來た私の心は田舍々々した日のあたつた故郷の田圃側の
前へ 次へ
全10ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング