あつたこと、それからそれへと幼い日のことを辿つて見ると書くべきことは多くありますが、こゝで筆を止めます。
私は母やお牧に抱かれた頃から始めて、婦人の手を離れるとは言へないまでも、すくなくも獨立の出來る頃まで斯の手紙を持つて行きたいと思ひました。婦人に對する少年らしい一種の無關心――左樣いふ時が一度私には來ました。私は側目《わきめ》もふらずに、錯々《せつせ》と自分の道を歩き始めた時がありました。そこまで御話しなければ、斯の手紙を書き始めた最初の目的は達したとも言へません。しかし今はそれをする時がありません。
私は遠い旅を思ひ立つて、長く住み慣れた家を離れようとして居ます。私が御地を去つて東京へ引移らうとした時、貴女のお母さんの家へ小さな記念の桐苗を殘して來たことが丁度胸に浮びます。貴女の御存じない子供は三人も斯の家で生れ、貴女の友達であつた妻もこゝで亡くなりました。今夜は斯の家で送る最終の晩です。旅の荷物やら引越の仕度やらゴチヤ/\した中で、子供は皆な寢沈まりました。
[#地から2字上げ]「微風」――終
底本:「藤村全集第五卷」筑摩書房
1967(昭和42)年3月10日
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